・・・猫というものがきわめてわずかであるが人格化されて私の心に映り始めたようである。 それ以来この猫の母子はいっそう人の影を恐れるようになった。それに比例して子供らの興味も増して行った。夕食のあとなどには庭のあちらこちらに伏兵のようにかくれて・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・荷葉半ば枯れなんとして見る影もなきが一入秋草の色に映りて面白し。春夏の花木もあれども目に入らず。しのぶ塚と云うを見ているうち我を呼びかける者あり。ふりかえれば森田の母子と田中君なり。連れ立って更に園をめぐる。草花に処々釣り下げたる短冊既に面・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・その上今日のように世の中が複雑になって、教育を受ける者が皆第一に自治の手段を目的とするならば、天下国家はあまり遠過ぎて直接に我々の眸には映りにくくなる。豆腐屋が豆を潰したり、呉服屋が尺を度ったりする意味で我々も職業に従事する。上下挙って奔走・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・もうタネリは小さくなって恐れ入っていましたらそらはすっかり明るくなりそのギリヤークの犬神は水平線まですっかりせり出し間もなく海に犬の足がちらちら映りながらこっちの方へやって来たのです。「おっかさん、おっかさん。おっかさん。」タネリは陸の・・・ 宮沢賢治 「サガレンと八月」
・・・ 留置場へ戻され、扉があいたと同時に第一房の前の人だかりが目に映り、自分は、もう駄目か! と思わず手を握りつめた。第一房の鉄扉があけ放され、その外では主任、特高、部長、看守が首をのばして内をのぞいているところへ、入るべき場所でないところ・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・で三ヵ月ばかりの間に私の眼に映りました事について少しお話いたしてみましょう。 一体にアイヌと云えば、内地の人は熊の子か何かのように思っているようですが、アイヌの生活には、私共の歴史の上に残っている祖先の生活を、眼のあたりに見るような・・・ 宮本百合子 「親しく見聞したアイヌの生活」
・・・ 室へ帰って手帳に物を書いていたら、薄いカーテンに妙に青っぽい閃光が映り、目をあげて外を見ると、窓前のプラタナスに似た街路樹の葉へも、折々そのマグネシュームをたいた時のような光が差して来る。不思議に思って首をさし出したら、つい先が小公園・・・ 宮本百合子 「石油の都バクーへ」
・・・ 社会的な動的な性質がその友情のなかに多くこもっていればいるほど、歴史の波や個人の事情が二重に映り作用して、誠実な人の心と心との間では、夫婦の間におこるとはおのずから異りながら、おのずから同じところもある発展の道ゆきがあるのではないだろ・・・ 宮本百合子 「なつかしい仲間」
・・・夜、森とした中で机に向ってい、ひょいと頭を擡げると、すぐ前に在る障子の硝子面、外の硝子の面と、いきなり二重に自分の顔や手つきが映り、不気味になる。――ああ、こんなにすき透し! 泥棒にすっかり見られてしまう。どうしても、カアテンがなければ駄目・・・ 宮本百合子 「春」
・・・しかし、現実生活の隅々が落着いて目に映りはじめた時、婦人は男が還ったという喜び以上の、新しい驚愕と不安に、心づいたと思う。終戦直後、大きな軍需会社は即日職員の解雇をした。そして、一人当りいくらかの纏まった金を、解雇手当として与えた。軍人は部・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
出典:青空文庫