・・・ そのお婆さんは、自分で手拍子を取りながら、唄を謳って、四つの孫に「春雨」を踊らせていた。子供は扇子を持って、くるくる踊っていたが、角々がきちんと極まっていた。「お絹ばあちゃがお弟子にお稽古をつけているのを、このちびさんが門前の小僧・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・然るに已に完成しおわった江戸芸術によって、溢るるまでその内容の生命を豊富にされたかかる下町の女の立居振舞いには、敢て化粧の時の姿に限らない。春雨の格子戸に渋蛇の目開きかける様子といい、長火鉢の向うに長煙管取り上げる手付きといい、物思う夕まぐ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・二年三年とたつ中に瞽女は立派な専門の門附になって「春雨」や「梅にも春」などを弾き出したがする中いつか姿を見せなくなった。私は家の女中が何処から聞いて来たものか、あの瞽女は目も見えないくせに男と密通いて子を孕んだのだと噂しているのを聞いた事が・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・馬琴春水の物や、『春雨物語』、『佳人の奇遇』のような小説類は沢山あったが、硯友社作家の新刊物は一冊もなかった。わたくしが中学生の頃初め漢詩を学びその後近代の文学に志を向けかけた頃、友人井上唖々子が『今戸心中』所載の『文芸倶楽部』と、緑雨の『・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・春雨やいざよふ月の海半春風や堤長うして家遠し雉打て帰る家路の日は高し玉川に高野の花や流れ去る祇や鑑や髭に落花をひねりけり桜狩美人の腹や減却す出べくとして出ずなりぬ梅の宿菜の花や月は東に日は西に裏門の寺・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・それは、自分の生活とはきりはなして雨を眺め、春雨はやさしく柳の糸をぬらしています云々のいわゆる美文的作文である。 然し、この美文的作文が自然描写の場合には非常に多くのパーセントを占めている。そのことは過去の文学の大きい一つの特徴として、・・・ 宮本百合子 「自然描写における社会性について」
・・・多賀ちゃん、静にしておいで、と障子をしめてちゃんと坐っていらっしゃるから何がはじまるのかと思ったら、三味線で春雨やなんか爪弾きなさいましたって。何十年ぶりのことでしょう! 男の子ばかりもって、家は今一人でやっていられるお母さんは、どっさ・・・ 宮本百合子 「二人の弟たちへのたより」
未練も容謝もない様に、天から真直な大雨が降って居る。 静かな、煙る様な春雨も好いには違いないけれ共、斯うした男性的な雨も又好いものだ。 木端ぶきの書斎の屋根では、頭がへこむほどひどい音をたてて居るし、雨だれも滝の様・・・ 宮本百合子 「無題(三)」
出典:青空文庫