・・・妙な時刻に着いたものだと、しょんぼり佇んでいると、カンテラを振りまわしながら眠ったく駅の名をよんでいた駅員が、いきなり私の手から切符をひったくった。 乗って来た汽車をやり過してから、線路を越え、誰もいない改札口を出た。青いシェードを掛け・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・と念を押しながら、まだ十二時過ぎたばかりの時刻だったので、小僧と警察へ同行することにした。 警察では受附の巡査が、「こうした事件はすべて市役所の関係したことだから、そっちへ伴れて行ったらいいでしょう」と冷淡な態度で言放ったが、耕吉が執固・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ 二 どうして喬がそんなに夜更けて窓に起きているか、それは彼がそんな時刻まで寝られないからでもあった。寝るには余り暗い考えが彼を苦しめるからでもあった。彼は悪い病気を女から得て来ていた。 ずっと以前彼はこんな夢を・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・いので、大いに失望した上に、お正の身の上の不幸を箱根細工の店で聞かされたので、不快に堪えず、流れを泝って渓の奥まで一人で散歩して見たが少しも面白くない、気は塞ぐ一方であるから、宿に帰って、少し夕飯には時刻が早いが、酒を命じた。三・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・たとい有ったにしても、何とでも作意を用いて、失敗の痕を無くすことが出来る。時刻が相応に移る。いかに物好な殿にせよ長くご覧になっておらるる間には退屈する。そこで鱗なら鱗、毛なら毛を彫って、同じような刀法を繰返す頃になって、殿にご休息をなさるよ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ 一年前の大きな出来事を想い起させるような同じ日の同じ時刻も、どうやら、無事に過ぎた。一しきりの沈黙の時が過ぎて、各自の無事を思う心がそれに変った。日頃台所にいて庖丁に親しむことの好きなお三輪は、こういう日にこそ伜や親戚を集め、自分の手・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・その二尺玉の花火がもう上る時刻なので、それをどうしてもお母さんに見せると言ってきかないのです。佐吉さんも相当酔って居りました。「見せるったら、見ねえのか。屋根へ上ればよく見えるんだ。おれが負ってやるっていうのに、さ、負さりなよ、ぐずぐず・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・この娘とはいつでも同時刻に代々木から電車に乗って、牛込まで行くので、以前からよくその姿を見知っていたが、それといってあえて口をきいたというのではない。ただ相対して乗っている、よく肥った娘だなアと思う。あの頬の肉の豊かなこと、乳の大きなこと、・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・いつもならば夕凪の蒸暑く重苦しい時刻であるが、今夜は妙に湿っぽい冷たい風が、一しきり二しきり堤下の桑畑から渦巻いては、暗い床の間の掛物をあおる。草も木も軒の風鈴も目に見えぬ魂が入って動くように思われる。 浜辺に焚火をしているのが見える。・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・展覧に時刻を移したが、初夏の日は猶高く食時にもまだ大分間がある。さりとてこの人数袂をつらねて散歩に行くべき処もない。上野公園の森は目の前に見えているが無論行く気にはならない。兎に角一同自動車に乗ろうとする間際になって、ふと震災後向島はどんな・・・ 永井荷風 「百花園」
出典:青空文庫