・・・一枚一枚に眼を晒し終わって後、さてあまりに尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐわない気持を、私は以前には好んで味わっていたものであった。……「あ、そうだそうだ」その時私は袂の中の檸檬を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・ 祭の日などには舞台据えらるべき広辻あり、貧しき家の児ら血色なき顔を曝して戯れす、懐手して立てるもあり。ここに来かかりし乞食あり。小供の一人、「紀州紀州」と呼びしが振向きもせで行過ぎんとす。うち見には十五六と思わる、蓬なす頭髪は頸を被い・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 彼は、これまでに、しばしば危険に身を曝したことを思った。 弾丸に倒れ、眼を失い、腕を落した者が、三人や四人ではなかった。 彼と、一緒に歩哨に立っていて、夕方、不意に、胸から血潮を迸ばしらして、倒れた男もあった。坂本という姓だっ・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・是れ何人に取っても満足すべき時に死せざれば、死に勝さる耻ありと、現に私は、其死所を得ざりし為めに、気の毒な生恥じを晒して居る多くの人々を見るのである。 一昨年の夏、露国より帰航の途中で物故した長谷川二葉亭を、朝野挙って哀悼した所であった・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・棚曝しになった聖賢の伝記、読み捨てられた物語、獄中の日誌、世に忘れられた詩歌もあれば、酒と女と食物との手引草もある。今日までの代の変遷を見せる一種の展覧会、とでも言ったような具合に、あるいは人間の無益な努力、徒に流した涙、滅びて行く名――そ・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・ これらは、西鶴一流とは云うものの、当時の日本人、ことに町人の間に瀰漫していて、しかも意識されてはいなかった潜在思想を、西鶴の冷静な科学者的な眼光で観破し摘出し大胆に日光に曝したものと見ることは出来よう。もしもそうでなかったらいかに彼の・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・ 可笑しいことには、古来の屋根の一型式に従ってこけら葺の上に石ころを並べたのは案外平気でいるそのすぐ隣に、当世風のトタン葺や、油布張の屋根がべろべろに剥がれて醜骸を曝しているのであった。 甲州路へかけても到る処の古い村落はほとんど無・・・ 寺田寅彦 「颱風雑俎」
・・・降りつづいた雨のふと霽れて、青空の面にはまだ白い雲のちぎれちぎれに動いている朝まだき、家毎に物洗う水の音と、女供の嬉々として笑う声の聞える折から、竿竹売の田舎びた太い声に驚かされて、犬の子は吠え、日に曝した雨傘のかげからは雀がぱっと飛び立つ・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・顔も白い晒しで隠してあった。余が枕辺近く寄って、その晒しを取り除けた時、僧は読経の声をぴたりと止めた。夜半の灯に透かして見た池辺君の顔は、常と何の変る事もなかった。刈り込んだ髯に交る白髪が、忘るべからざる彼の特徴のごとくに余の眼を射た。ただ・・・ 夏目漱石 「三山居士」
・・・社の方から云えばあの方がよいのでしょうが、夏目漱石氏から云えばああ曝しものになるのはあまりありがたくない。なお車の上で観察すると往来の幅がはなはだ狭い。がそれは問題ではない、私の妙に感じたのはその細い往来がヒッソリして非常に静かに昼寝でもし・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
出典:青空文庫