・・・もうなんにも考えずに、背戸の竹山の雨の暗がりを走って隣へいってしまった。 湯は竈屋の庇の下で背戸の出口に据えてある。あたりまっ暗ではあれど、勝手知ってる家だから、足さぐりに行っても子細はない。風呂の前の方へきたら釜の火がとろとろと燃えて・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・箱車の中にはいっている天使は、やはり、暗がりにいて、ただ車が石の上をガタガタと躍りながら、なんでものどかな、田舎道を、引かれてゆく音しか聞くことができませんでした。 箱車を引いてゆく男は、途中で、だれかと道づれになったようです。「い・・・ 小川未明 「飴チョコの天使」
・・・ある夜、暗い道を自分の淋しい下駄の音をききながら、歩いていると、いきなり暗がりに木犀の匂いが閃いた。私はなんということもなしに胸を温めた。雨あがりの道だった。 二、三日してアパートの部屋に、金木犀の一枝を生けて置いた。その匂いが私の孤独・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・ 客引きは振り向いて言った。自転車につけた提灯のあかりがはげしく揺れ、そして急に小さくなってしまった。 暗がりのなかへひとり取り残されて、私はひどく心細くなった。汽車の時間を勘ちがいして、そんな真夜なかに着いたことといい、客引きの腑・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・それから橋のたもとの暗がりに出ている螢売の螢火の瞬き……。私の夢はいつもそうした灯の周りに暈となってぐるぐると廻るのです。私は一と六の日ごとに平野町に夜店が出る灯ともしころになると、そわそわとして、そして店を抜けだすのでした。それから、あの・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ たとえば、この間、大阪も到頭こんな姿になり果てたのかと、いやらしい想いをしながら、夜の闇市場で道に迷っている時、ふと片隅の暗がりで、蛍を売っているのを見た。二匹で五円、闇市場の中では靴みがきに次ぐけちくさい商内だが、しかし、暗がりの中・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・ 女はまた改札口を出て行って、きょろきょろ暗がりの中を見廻していたがすぐ戻って来て、「たしかここが荒神口だときいて来たんですけど……」「こんなに遅く、どこかをたずねられるんですか」「いいえ、荒神口で待っているように電報が来た・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・になった椅子に並んで掛けた時、私ははじめてほっとしてあたりに客の尠いのを喜びながら汗を拭いたが、やがて天井に映写された星のほかには彼女の少し上向きの低い鼻の頭も見えないくらい場内が真っ暗になると、この暗がりをもっけの倖いだと思った、それほど・・・ 織田作之助 「世相」
・・・別れぎわの女は暗がりを歩きたがる。そして急に立ち停る。女が何を要求しているか私には判るのだが、しかし私は肩にすら触れない。 思えば、最初に女と別れた時の取り乱し方と、何という違いだろう。しかし取り乱しても、さすがに私は煙草だけは吸うこと・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・そして表へ出ると、はたして泣声は軒下の暗がりのなかにみつかった。捨てられているのかと抱いてあやすと、泣きやんで笑った。蚊に食われた跡が涙に汚れてきたない顔だったが、えくぼがあり、鼻の低いところ、おでこの飛びでているところなど、何か伊助に似て・・・ 織田作之助 「螢」
出典:青空文庫