・・・ 婆さんは呆気にとられたのでしょう。暫くは何とも答えずに、喘ぐような声ばかり立てていました。が、妙子は婆さんに頓着せず、おごそかに話し続けるのです。「お前は憐れな父親の手から、この女の子を盗んで来た。もし命が惜しかったら、明日とも言・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・仰向けになって鋼線のような脚を伸したり縮めたりして藻掻く様は命の薄れるもののように見えた。暫くするとしかしそれはまた器用に翅を使って起きかえった。そしてよろよろと草の葉裏に這いよった。そして十四、五分の後にはまた翅をはってうなりを立てながら・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・白い革紐は、腰を掛けている人をらくにして遣ろうとでもするように、巧に、造作もなく、罪人の手足に纏わる。暫くの間、獄丁の黒い上衣に覆われて、罪人の形が見えずにいる。一刹那の後に、獄丁が側へ退いたので、フレンチが罪人を見ると、その姿が丸で変って・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・また低い木立や草叢がある。暫く行くと道標の杙が立って居て、その側に居酒屋がある。その前に百姓が大勢居る。百姓はこの辺りをうろつく馬鹿者にイリュウシャというものがいるのをつかまえて、からかって居る。「一銭おくれ」と馬鹿は大儀そうな声でいっ・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・詩的な点にある、趣味の点より見れば茶の湯は実に高いものである、家庭問題社会問題より見れば欧人の晩食人事は実に美風である、今日の茶の湯というもの固より其弊に堪えないは勿論なれど何事にも必ず弊はあるもの、暫く其弊を言わずして可。一面には純詩的な・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・僕等は暫くしてあがった。 家は古いが、細君の方の親譲りで、二階の飾りなども可なり揃っていた。友人の今の身分から見ると、家賃がいらないだけに、どこか楽に見えるところもあった。夫婦に子供二人の活しだ。「あす君は帰るんや。なア、僕は役場の・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・本意に非ず 伍員墓を発く豈初心ならん 品川に梟示す竜頭の冑 想見る当年怨毒の深きを 曳手・単節荒芽山畔路叉を成す 馬を駆て帰来る日斜き易し 虫喞凄涼夜月に吟ず 蝶魂冷澹秋花を抱く 飄零暫く寓す神仙の宅 禍乱早く離る夫婿の家 ・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ それは暫く措き、都会がいたずらに発達するということも、中央集権的であるということも、従って都会人は、ようやく此生活から離れて行くがために、いよ/\変則的な生活を営むということも、また中央集権的なるが故に、文化がこゝのみに発達して、都会・・・ 小川未明 「街を行くまゝに感ず」
・・・ 爺さんは暫く口の中で、何かぶつぶつ言ってるようでしたが、やがて何か考えが浮んだように、俄にニコニコとして、こう申しました。「ええ。畏りました。だが、この寒空にこの土地で梨の実を手に入れる事は出来ません。併し、わたくしは今梨の実の沢・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・私は何故こんな規則が出来たのだろうかと、暫く思案したが、よく判らなかった。そこで私は、もしかしたらこれは、長髪の生徒の中には社会主義の思想を抱いている者が多いから、丸刈りを強制したのかも知れないという珍妙な想像をして、ひそかに吹きだした。し・・・ 織田作之助 「髪」
出典:青空文庫