・・・夜はだんだん更ける。 時々篝火が崩れる音がする。崩れるたびに狼狽えたように焔が大将になだれかかる。真黒な眉の下で、大将の眼がぴかぴかと光っている。すると誰やら来て、新しい枝をたくさん火の中へ抛げ込んで行く。しばらくすると、火がぱちぱちと・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・もう秋の末で薄寒い頃に袷に襦袢で震えて居るのに、どうしたかいくら口をかけてもお前は来てくれず、夜はしみじみと更ける寒さは増す、独りグイ飲みのやけ酒という気味で、もう帰ろうと思ってるとお前が丁度やって来たから狸寝入でそこにころがって居ると、オ・・・ 正岡子規 「墓」
・・・ 今まで通って居た便所に消毒薬を撒いたり、薬屋に□□(錠の薄める分量をきいたりしてざわざわ落つきのない夜が更けると、宮部の熱は九度一分にあがってしまった。 台所では二つの氷嚢に入れる氷をかく音が妙に淋しく響き主夫婦は、額をつき合わせ・・・ 宮本百合子 「黒馬車」
・・・夜が更けるにつれ益々すべっこくなった。モスクワ大学横の暗い坂をタクシーが一台登ろうとしては辷って逆行していた――が、読者よ、そんなにおそくまで平気で子供をほったらかし無数のソヴェトの母親がクフミンストル・クラブのの広間で、芝居に熱中してると・・・ 宮本百合子 「三月八日は女の日だ」
・・・ 夜更けるまで仕事をして、少し頭がつかれたとき人はひどく神経質になる、私はひどく臆病になる、 又蛾が来たのかなと思って、こわごわ見ると、何か赤い縞の小虫である。 暫くじっと止って居たがやがて急に私の胸元へとびついて来た。 驚・・・ 宮本百合子 「樹蔭雑記」
・・・などと云いながら、少し夜が更けると、皆の暑がるのもかまわず、すっかり戸を閉めて、ガラス戸にはカーテンをすきまない様に引いた。 そして、そこいら中に燈をカンカンつけた中に、小さい鐘を引きつけて、私は大変強そうに、自信あるらしい様子・・・ 宮本百合子 「盗難」
・・・と云ったきりでまただまりかえって居たけれ共夜が更けると一緒に段々目がさえてこまったと云って当直の女をあつめていろいろな世間ばなしをさせたり物語りの本をよませてなど居たけれ共中々ねむられそうにもなかった。 いろいろのはなしの末に一番ま・・・ 宮本百合子 「錦木」
・・・その中で私は東京に居る時の様に更けるまで息をはずませて話合う様な人はたった一人もない山中に、いつもいつも待遠がって居る夜が来るやいなや、寝床へもぐり込む。寒いのでそちらの様に長起きが出来ないんです。つくづく東京が恋しい。平常私は『自分は、手・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・夜のはなやかな祇園のそばに家があったんで夜がかなり更けるまでなまめいた女の声、太鼓や三味の響が聞えて居る中でまるで極楽にでも行く様な気持で音の中につつまれて眠りについたのは私には忘られないほどうれしい、気持のいいねつき様であった。大きなリボ・・・ 宮本百合子 「ひな勇はん」
・・・松坂以来九郎右衛門の捜索方鍼に対して、稍不満らしい気色を見せながら、つまりは意志の堅固な、機嫌に浮沈のない叔父に威圧せられて、附いて歩いていた宇平が、この時急に活気を生じて、船中で夜の更けるまで話し続けた。 十六日の朝舟は讃岐国丸亀に着・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫