・・・しかし敦煌の発掘品等に徴すれば、書画は五百年を閲した後にも依然として力を保っているらしい。のみならず文章も千古無窮に力を保つかどうかは疑問である。観念も時の支配の外に超然としていることの出来るものではない。我我の祖先は「神」と言う言葉に衣冠・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・ 滝田君は本職の文芸の外にも書画や骨董を愛していた。僕は今人の作品の外にも、椿岳や雲坪の出来の善いものを幾つか滝田君に見せて貰った。勿論僕の見なかったものにもまだ逸品は多いであろう。が、僕の見た限りでは滝田コレクションは何と言っても今人・・・ 芥川竜之介 「滝田哲太郎氏」
・・・だから夏目先生のものは随分沢山持っていられました。書画骨董を買うことが熱心で、滝田さん自身話されたことですが、何も買う気がなくて日本橋の中通りをぶらついていた時、埴輪などを見附けて一時間とたたない中に千円か千五百円分を買ったことがあるそうで・・・ 芥川竜之介 「夏目先生と滝田さん」
・・・いやしくもおまえさんが押しも押されもしない書画屋さんである以上、書画屋という商売にふさわしい見識を見せるのが、おまえさんの誉れにもなるし沽券にもなる。ひとつおまえさんあれを一手に引き受けて遺作展覧会をやる気はありませんか。そうしたら、九頭竜・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・うまれからの廓ものといえども、見識があって、役者の下端だの、幇間の真似はしない。書画をたしなみ骨董を捻り、俳諧を友として、内の控えの、千束の寮にかくれ住んだ。……小遣万端いずれも本家持の処、小判小粒で仕送るほどの身上でない。……両親がまだ達・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・その頃の書家や画家が売名の手段は書画会を開くが唯一の策であった。今日の百画会は当時の書画会の変形であるが、展覧会がなかった時代には書画会以外に書家や画家が自ら世に紹介する道がなかったから、今日の百画会が無名の小画家の生活手段であると反して、・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・とて、ただ筆硯に不自由するばかりでなく、書画を見ても見えず、僅かに昼夜を弁ずるのみなれば詮方なくて机を退け筆を投げ捨てて嘆息の余りに「ながらふるかひこそなけれ見えずなりし書巻川に猶わたる世は」と詠じたという一節がある。何という凄惻の悲史であ・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・私もじつはせめて二三本もいいものがあると、信用のできる書画屋の方へも紹介しようと思ったんですがね、これではしようがありませんね。やはりお持ち帰りになった方がお得でしょう」 仕事の邪魔された上に、よけいな汚らわしいものを見せられたといった・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・その説に従えば、骨董は初は古銅器を指したもので、後に至って玉石の器や書画の類まで、すべて古いものを称することになったのである。なるほど韓駒の詩の、「言う莫かれ衲子の籃に底無しと、江南の骨董を盛り取って帰る」などという句を引いて講釈されると、・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・ 書画骨董で、重要美術級のものは、一つも無かった。 この父は、芝居が好きなようであったが、しかし、小説は何も読まなかった。「死線を越えて」という長編を読み、とんだ時間つぶしをしたと愚痴を言っていたのを、私は幼い時に聞いて覚えている。・・・ 太宰治 「苦悩の年鑑」
出典:青空文庫