・・・ けれども、以来犬と云うものは嘗て飼われなかった。母は性来余り動物好きではなかったし、父は、全然無頓着な方であった。後年、鴨、鳩、鶏がかなり大仕掛けに飼養された前後にも、猫と犬とは、私共の家庭に、一種の侵入者としての関係しか持たなかった・・・ 宮本百合子 「犬のはじまり」
・・・何故なら、石坂氏が一プロレタリア作家牧野に最大限の階級的完全性を要求しているその感情こそ、裏をかえせば、とりもなおさず、嘗てプロレタリア作家が少なからずそれによって非難をうけて来た人間の観念化を来らしめたその感情なのであるから。そして、大森・・・ 宮本百合子 「落ちたままのネジ」
・・・ 自分や他の女性が嘗て持ち、今もその遺物として持っている「人」としての弱小さは、人と成ろうとする努力によってのみ救われるだろう。如何にして人と成るか、如何にして真実な芸術を創造し得る魂を持つかそれは、その人々に遺された問題であると思う。・・・ 宮本百合子 「概念と心其もの」
・・・ 二かたまり、流れる白雲と青空とを背にして、雀は、嘗て見たどの雀よりも、簡潔に、強く、心を動かした。 宮本百合子 「傾く日」
・・・ あなたは、リアリストとしての賢明さから自身の特別条件のよい境遇の価値というものを十分理解されていたと思われます。嘗て「青鞜社」の活動の旺であった時代、伊藤野枝があなたのとなりに住んでいた時代、近くは急速な思想的動揺、歴史の転廻の時代、・・・ 宮本百合子 「含蓄ある歳月」
・・・彼女は、そうやって耳をつけ、柱の奥から、嘗て自分の恋をした、今も可愛い男の声を聴いて居たのだ。自分を抱いて名を呼ぶ声、向い合って坐り、朝や夜、種々の物語をした、その懐しい声を聞いて居たのだ。・・・ 宮本百合子 「声」
・・・ニージュニ・ノヴゴロド市の埠頭、嘗てゴーリキーが人足をしたことのある埠頭から、ヴォルガ航行の汽船が出る。母なるヴォルガ河、船唄で世界に知られているこの大河の航行は、実に心地のいい休養だ。ニージュニときくと、恐らく或る者はそう思いもするだろう・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェトの芸術」
・・・ 頭がつやつやと黒く、体は全体金茶色で、うす灰色の嘴と共に落付いて見えるきんぱらは、嘗て見苦しいほど物に動じたのを、私は見たことがない。雌雄も、地味な友情で結ばれているように、仲間とも馴染まず、避けず、どんな新来者があっても、こればかり・・・ 宮本百合子 「小鳥」
・・・一定のイデオロギーに対する人間的弱さ、箇性の再発見、インテリゲンツィア・小市民としての出生への再帰の欲望などが内的対立として分裂の形で作品にあらわれ、傷いた階級的良心の敏感さは、嘗てその良心の故に公式的であったものが今や自虐的な方向への拍車・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・ 斯様に外国の作家を尊重する現象は直に自国の優秀な作品を持たないと云う事には成るまい。嘗て米国は Stevenson や Allan Poe を産んだのだ。けれども今 Kipling に匹敵する作家としては O. Henry と数え始め・・・ 宮本百合子 「最近悦ばれているものから」
出典:青空文庫