・・・その頃は世間に神経衰弱という病名が甫めて知られ出した時分であったのだが、真にいわゆる神経衰弱であったか、あるいは真に漫性胃病であったか、とにかく医博士たちの診断も朦朧で、人によって異る不明の病に襲われて段衰弱した。切詰めた予算だけしか有して・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・学士は身体の置き処も無いほど酔っていたが、でも平素の心を失うまいとする風で、朦朧とした眼をみはって、そこに居る夫婦の顔や、洋燈に映るコップの水などをよく見ようとした。 学士のコップを取ろうとする手は震えた。お島はそれを学士の方へ押しすす・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・いますぐ、渋谷へ飛んで行って、確めてみたいとさえ思ったが、やはり熊本君の下宿の道順など、朦朧としている。夢だったのに違いない。公園の森を通り抜け、動物園の前を過ぎ、池をめぐって馴染の茶店にはいった。老婆が出て来て、「おや、きょうは、お一・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・と極度の疲労のため精神朦朧となり、君子の道を学んだ者にも似合わず、しきりに世を呪い、わが身の不幸を嘆いて、薄目をあいて空飛ぶ烏の大群を見上げ、「からすには、貧富が無くて、仕合せだなあ。」と小声で言って、眼を閉じた。 この湖畔の呉王廟は、・・・ 太宰治 「竹青」
・・・ねて、そのとき捕えられ、私の家を襲撃したことをも白状して、警察は、その白状にもとづいて、はじめて私に問い合せに来ても、そのときは、私は頭を掻き掻き、さあ、何せまっくらで、それに夢見ごこちで、記憶が全く朦朧としている始末で、どうもお役に立たず・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・南国の盛夏の真昼間の土蔵の二階の窓をしめ切って、満身の汗を浴びながら石油ランプに顔を近寄せて、一生懸命に朦朧たる映像を鮮明にかつ大きくすることに苦心した当時の心持ちはきのうのことのように記憶に新たである。青と赤のインキで塗った下手な鳥の絵の・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・ いかに現在の計測を精鋭にゆきわたらせることができたとしても、過去と未来には末広がりに朦朧たる不明の笹縁がつきまとってくる。そうして実はそういう場合にのみ通例考えられているような「因果」という言葉が始めて独立な存在理由を有するという・・・ 寺田寅彦 「野球時代」
・・・暗澹たる空は低く垂れ、立木の梢は雲のように霞み渡って居ながら、紛々として降る雪、満々として積る雪に、庭一面は朦朧として薄暮よりも明かった。母と二人、午飯を済まして、一時も過ぎ、少しく待ちあぐんで、心疲れのして来た時、何とも云えぬ悲惨な叫声。・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ 中間の堤防はその左右ともに水が流れていて、遠く両岸の町や工場もかくれて見えず、橋の影も日の暮れかかるころには朦朧とした水蒸気に包まれてしまうので、ここに杖を曳く時、わたくしは見る見る薄く消えて行く自分の影を見、一歩一歩風に吹き消される・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・に行かなかったのは余の幸であるかはた不幸であるか、考うること四十八時間ついに判然しなかった、日本派の俳諧師これを称して朦朧体という 忘月忘日 数日来の手痛き経験と精緻なる思索とによって余は下の結論に到着した自転車の鞍とペダルとは・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
出典:青空文庫