「浅草の永住町に、信行寺と云う寺がありますが、――いえ、大きな寺じゃありません。ただ日朗上人の御木像があるとか云う、相応に由緒のある寺だそうです。その寺の門前に、明治二十二年の秋、男の子が一人捨ててありました。それがまた生れ年は勿論、名・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・本尊だに右の如くなれば、この小堂の破損はいう迄もなし、ようように縁にあがり見るに、内に仏とてもなく、唯婦人の甲冑して長刀を持ちたる木像二つを安置せり。 これ、佐藤継信忠信兄弟の妻、二人都にて討死せしのち、その母の泣悲しむがいとしさに・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・小やすみの庄屋が、殿様の歌人なのを知って、家に持伝えた人麿の木像を献じた。お覚えのめでたさ、その御機嫌の段いうまでもない――帰途に、身が領分に口寄の巫女があると聞く、いまだ試みた事がない。それへ案内をせよ。太守は人麿の声を聞こうとしたのであ・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・造次の間八田巡査は、木像のごとく突っ立ちぬ。さらに冷然として一定の足並みをもて粛々と歩み出だせり。ああ、恋は命なり。間接にわれをして死せしめんとする老人の談話を聞くことの、いかに巡査には絶痛なりしよ。ひとたび歩を急にせんか、八田は疾に渠らを・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・今も安房誕生寺には日蓮自刻の父母の木像がある。追福のために刻んだのだ。うつそみの親のみすがた木につくりただに額ずり哭き給ひけん これは先年その木像を見て私が作った歌だ。 この帰省中に日蓮は清澄山での旧師道善房に会って、彼・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・小湊の誕生寺には日蓮自刻の母親の木像がある。いたって孝心深かった日蓮も法のため母を捨てねばならなかった。己が捨てし母の御姿木に造り千度額ずり哭き給ひけむ これはこの木像を見て私の作った歌である。 ある人を愛して結ばれやが・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・しかし人によると妙にしゃちこばって土偶か木像のように硬直して動かないのがある。 こういう人はたぶん出世のできない人であろうと思う。 もっとも、こういう人が世の中に一人もなくなってしまったら、世の中にけんかというものもなくなり、国と国・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・玄関から縁側まで古本が高く積んであったのと、床の間に高さ二尺ばかりの孔子の坐像と、また外に二つばかり同じような木像が置かれてあった事を、わたくしは今でも忘れずにおぼえている。 わたくしは裳川先生が講詩の席で、始めて亡友井上唖々君を知った・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・ そうも出来ない時には、部屋の隅にかたく座って、眼も心もつぶって、木像の様に身動きさえもしなかった。 只、専ら怖れて居ると云う様にして居た。それだから恭二自身も、いざとなった場合、はっきり、 私が不賛成です。と云い切・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・もう暗いので、朧に仏像の金色が見えただけ、木像、光背も木。余り立派な顔の仏でないようだ。境内宏く、古びた大銀杏の下で村童が銀杏をひろって遊んでいる。本堂の廊から三つの堂を眺めた風景、重そうな茅屋根が夕闇にぼやけ、大銀杏の梢にだけ夕日が燃ゆる・・・ 宮本百合子 「金色の秋の暮」
出典:青空文庫