・・・私は業を煮やして、あの小説は嘘を書いただけでなく、どこまで小説の中で嘘がつけるかという、嘘の可能性を試してみた小説だ、嘘は小説の本能なのだ、人間には性慾食慾その他の本能があるが、小説自体にももし本能があるとすれば、それは「嘘の可能性」という・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・佐々木に言わせれば、笹川の本能性ともいうべき「他の優越に対する反感性」が、佐々木の場合に特別に強く現われている言うのだ。――こうしたことを読んでいて、今の佐々木の挨拶を聞いては、他の人たちはあるいは私とは違った意味の微笑を心の中に浮べたかも・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・一方の極へおとされてゆく私の気持は、然し、本能的な逆の力と争いはじめました。そしてAの家を出る頃ようやく調和したくつろぎに帰ることが出来ました。Aが使から帰って来てからは皆の話も変って専ら来年の計画の上に落ちました。Rのつけた雑誌の名前を繰・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・と思ってはその期待に裏切られたり、今日こそは医者を頼もうかと思ってはむだに辛抱をしたり、いつまでもひどい息切れを冒しては便所へ通ったり、そんな本能的な受身なことばかりやっていた。そしてやっと医者を迎えた頃には、もうげっそり頬もこけてしまって・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・それとともに人間生活の本能的刺激、生活資料としての感性的なるものの抜くべからざる要請の強さに打たれるであろう。この三つのものの正当なる権利の要求を、如何に全人として調和統合するかが結局倫理学の課題である。 三 文芸と倫理学・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・よりは、まだしも獲得の本能にもとづく肉慾追求の青年をとるものだ。「銀ぶら」「喫茶店めぐり」、背広で行くダンス・ホール、ピクニック、――そうした場所で女友を拾い、女性の香気を僅かにすすって、深入りしようとも、結婚しようともせず、春の日を浮き浮・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・彼は、本能的に白樺の下へ行くのを忌避していた。「あ、これだ、これだ!」 丘から下って来た看護卒は、老人が歩いて行く方へやって来た。そして、一人が云った。彼等は鮮人に接近すると、汚い伝染病にでも感染するかのように、一間ばかり離れて、珍・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ なるほど、人間、いな、すべての生物には、自己保存の本能がある。栄養である。生活である。これによれば、人はどこまでも死をさけ、死に抗するのが自然であるかのように見える。されど、一面にはまた種保存の本能がある。恋愛である。生殖である。これ・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ ニイチェが人生観の、本能論の半面にあらわれた思想も、一種の自然主義と見る人がある。それならこれもまたルーソーの場合と同しく、わが疑惑内の一事実を提示するに過ぎないのは言うを待たぬ。 ロシアの作者、ツルゲネフやトルストイにあらわれた・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・おしゃれの本能というものは、手本がなくても、おのずから発明するものかも知れません。 ほとんど生れてはじめて都会らしい都会に足を踏みこむのでしたから、少年にとっては一世一代の凝った身なりであったわけです。興奮のあまり、その本州北端の一小都・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
出典:青空文庫