・・・すごすご帰る道、仙台に板垣退助の娘がいることを耳にした。板垣退助こそ民主主義である。彼は仙台へ行った。宿につき女中にきくと、「誰方とでもお会いになります。いえ、誰方にも名刺を下さいます。私もいただきました」 見せて貰うと、洗濯屋の名・・・ 織田作之助 「民主主義」
・・・このような珍しい現象の記録をそれが消えない今のうちに収集しておくのは、切手やマッチのレッテルの収集よりは有意義であろうと思っていたが、近刊の板垣鷹穂氏著「芸術的現代の諸相」の中に、このような収集の一部が発表されているのを見てなるほどと思うの・・・ 寺田寅彦 「カメラをさげて」
小学時代の先生方から学校教育を受けた外に同学の友達からは色々の大切な人間教育を受けた。そういう友達の中にも硬派と軟派と二種類あって、その硬派の首領株からはだいぶいじめられた。板垣退助を戴いた自由党が全盛の時代であったので、・・・ 寺田寅彦 「鷹を貰い損なった話」
・・・ 宮島新三郎板垣鷹穂などは、同志小林の殉難を惜しみつつ、同志小林がその活動を文学的活動の範囲に止めておかなかったことを遺憾とし、または、今度のことにつけても作家同盟はよく考えて欲しいと云っている。彼等は、ボルシェヴィク作家としての同志小・・・ 宮本百合子 「同志小林の業績の評価に寄せて」
・・・ 同じような文句は一九三三年二月小林多喜二が築地警察署で拷問の果に殺されたとき、板垣直子がかきました。小林多喜二を殺したのは共産党であるというデマゴギーは、このようにして十六年後もまだ或る人々の観念の中にあるのです。共産党とプロレタリ・・・ 宮本百合子 「文学について」
・・・三春藩の官軍支持の若い兄弟を描いたものである。板垣退助を隊長とする官軍に属する医者の息子である一人の青年に「維新の業は我ら草莽の臣の力によってなさるべきだ」といわせたり「暗厄利亜国に、把爾列孟多というものがあるのを御存知ですか。この戦争後に・・・ 宮本百合子 「文芸時評」
・・・ 憲法発布以前、封建の重荷を脱して新しい日本の社会を作ろうとする気運が純粋に高まっていた時代、その先頭に立ったのは板垣退助を首領として自由民権を唱え、一八八一年に結成された自由党の人々であった。自由民権というとき、当時の日本人は必ず男女・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
出典:青空文庫