・・・母は時々、金沢ふみ子さんや、それから、他の娘さんでやっぱり一躍有名になったひとの噂を、よそで聞いて来ては興奮して、和子だって、書けば書けるのにねえ、根気が無いからいけません、むかし加賀の千代女が、はじめてお師匠さんのところへ俳句を教わりに行・・・ 太宰治 「千代女」
・・・この盲人の根気と熱心に感心すると同時に、その仕事がどことなく私が今紙面の斑点を捜してはその出所を詮索した事に似通っているような気もした。どんな偉大な作家の傑作でも――むしろそういう人の作ほど豊富な文献上の材料が混入しているのは当然な事であっ・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・てんで相手にしないつもりでいたがどこまでも根気よくついて来て、そして息を切らせながらしつこく同じ事を繰り返している。それをしかりつけるだけの勇気のない私は、結局そのうるささを免れる唯一の方法として彼の意に従うほかはなかった。その結果は予想の・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・金を獲るには蟻が物を運ぶが如く、又点滴の雫が甃石に穴を穿つが如く根気よく細字を書くより外に道がない。 二の難事はいかに解決するだろう。解決のしかたによっては、僕は家を売り蔵書を市に鬻いで、路頭に彷徨する身となるかも知れない。僕は仏蘭西人・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・自然主義者にして今少し手強く、また今少し根気よく猛進したなら、自ら覆るの未来を早めつつある事に気がつくだろう。人生の全局面を蔽う大輪廓を描いて、未来をその中に追い込もうとするよりも、茫漠たる輪廓中の一小片を堅固に把持して、其処に自然主義の恒・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・これほどの骨折は、ただに病中の根気仕事としてよほどの決心を要するのみならず、いかにも無雑作に俳句や歌を作り上げる彼の性情から云っても、明かな矛盾である。思うに画と云う事に初心な彼は当時絵画における写生の必要を不折などから聞いて、それを一草一・・・ 夏目漱石 「子規の画」
・・・陽子は少年らしい色白な頸窩や、根気よい指先を見下しながら、内心の思いに捕われていた。その朝彼女の実家から手紙を貰った。純夫が陽子の離籍を承諾しない事、一人の女が彼の周囲にあるらしいことなど告げられたのであった。純夫に恋着を失った陽子にそんな・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 自分の思いつきを大切にして、それを実現してゆく方法を、根気よく見つけてゆく人間を作らなければなりません。 人間の社会には、いろいろの行きちがい、矛盾、醜いことがあるけれども、最後のところへゆけば、人間は道理に従って生きるものである・・・ 宮本百合子 「新しい躾」
・・・まれに物ずきに近づこうと試みるものがあっても、しばらくするうちに根気が続かなくなって遠ざかってしまう。まだ猪之助といって、前髪のあったとき、たびたび話をしかけたり、何かに手を借してやったりしていた年上の男が、「どうも阿部にはつけ入る隙がない・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・山のように積み上げたもみじの葉を根気よくたき口から突き込んで、長い時間をかけて、やっとはいれる程度に湯がわいた。湯はもちろん薪で焚いたのと一向変わりはなかったが、しかしこの努力でできた灰は大したものであった。さらさらとしていて、何となく清浄・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
出典:青空文庫