・・・』『おかしな人だ人に心配させて』とお絹は笑うて済ますをお常は『イヤ何か吉さんは案じていなさるようだ。』『吉さんだって少しは案じ事もあろうよ、案じ事のないものは馬鹿と馬鹿だというから。』『まだある若旦那』と小さな声で言うお常も・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・そのもの案じがおなる蒼き色、この夜は頬のあたりすこし赤らみておりおりいずこともなくみつむるまなざし、霧に包まれしある物を定かに視んと願うがごとし。 霧のうちには一人の翁立ちたり。 教師は筆おきて読みかえしぬ。読みかえして目を閉じたり・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・彼は親爺と妹の身の上を案じた。 翌朝、村へ帰ると親爺は逃げおくれて、家畜小屋の前で死骸となっていた。胸から背にまでぐさりと銃剣を突きさされていた。動物が巣にいる幼い子供を可愛がるように、家畜を可愛がっていたあの温しい眼は、今は、白く、何・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・心でそれを案じた。そして、なま/\しい傷を持って新しく這入って来た者に、知らず識らず競争と反感の爪をといだ。「どこをやられたんだ? どんなんだ?」 頭を十文字に繃帯している三中隊の男が、疚しさを持った眼で、まだ軍医の手あてを受けない・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・内の人の身分が好くなり、交際が上って来るにつけ、わたしが足らぬ、つり合い足らぬと他の人達に思われ云われはせぬかという女気の案じがなくも無いので、自分の事かしらんとまたちょっと疑ったが、どうもそうでも無いらしい。 定まって晩酌を取るという・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・「ホホホホ、いい気ぜんだよ、それでいつまでも潜っているのかい。「ハハハハ、お手の筋だ。「だって、後はどうするエ。一張羅を無くしては仕様がないじゃあないか、エ、後ですぐ困るじゃ無いか。「案じなさんな、銭があらあ。「妙だねえ・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・それでも私は遠く離れている子の上を案じ暮らして、自分が病気している間にも一日もあの山地のほうに働いている太郎のことを忘れなかった。郷里のほうから来るたよりはどれほどこの私を励ましたろう。私はまた次郎や三郎や末子と共に、どれほどそれを読むのを・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・いつまでも処女で年ばかり取って行くようなお新の前途が案じられてならなかった。お新は面長な顔かたちから背の高いところまで父親似で、長い眉のあたりなぞも父親にそっくりであった。おげんが自分の娘と対いあって座っている時は、亡くなった旦那と対いあっ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・小母さんは毎日あなたの事ばかり案じていらっしゃるんですよ。今度またこちらへお出でになることになりましてから、どんなにお喜びでしたかしれません。……考えると不思議な御縁ですわね」「妙なものですね。この夏はどうしたことからでしたか、ふとこち・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・お伺い致します、と申し上げまして、その中野のお店の場所をくわしく聞き、無理にお二人にご承諾をねがいまして、その夜はそのままでひとまず引きとっていただき、それから、寒い六畳間のまんなかに、ひとり坐って物案じいたしましたが、べつだん何のいい工夫・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
出典:青空文庫