・・・あるものは平板のべつ、のっぺらぽうでしょう。楠なんとかいうのは、誰が見たってのっぺらぽうに違ない。あるものに至っては、私の人情を傷けようと思って故意に残酷に拵えさしたと思われるくらいです。きられ与三郎の――そう、もっともこれは純然たる筋じゃ・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・しかし困ります。楠正成と豊臣秀吉とどっちが偉いと云うが、見方でいろいろな結論もできるし、そう白でなければ黒といった風に手早く相場をつける訳にも行かないし、要するに複雑な智識があればあるほど面喰うようになります。 こんな例を御話しするのは・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・の南はいづち春の暮月に対す君に投網の水煙掛香や唖の娘の人となり鮓を圧す石上に詩を題すべく夏山や京尽し飛ぶ鷺一つ浅川の西し東す若葉かな麓なる我蕎麦存す野分かな蘭夕狐のくれし奇楠をん漁家寒し酒に頭の雪を焼く頭・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・こんなありふれた本でさえ増刷を制限しているものだからこの始末です。楠書店はまだはっきりしたことがわからないので、明日でもまた電話してみます。 この間手紙で申しあげたように、ああちゃんの入院を機会に注射をやめようと思ったので、目白の先生に・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・桃色ろの半襟 色白、 四つの子供 楠生 ○七つになる姉 やっと覚えた片仮名で クソオ とかく 呼ぶのもクソオさん ○頬っぺた高くふくれて居るが手など細く弱々し。 ○坊や たべるの たべゆの ○カキクケ・・・ 宮本百合子 「一九二七年春より」
・・・然し、足にまかせ、あの暢やかなスロープと、楠の大樹と、多分馬酔木というのだろう、白い、房々した、振ったら珊々と変に鳴りそうな鈴形小花をつけた矮樹の繁みとで独特な美に満ちている公園を飽かず歩き廻った。三月末から四月五六日頃にかけての奈良の自然・・・ 宮本百合子 「宝に食われる」
・・・ 父は詩をつくることと篆刻が少年時代の趣味だったそうで、楠の小引出しにいろいろと彫った臘石があったのを私も憶えている。その少年が十六のとき初めて英語の本を見て、なかの絵が出て来る迄、さかさに見ていたのが分らなかったということも聞いている・・・ 宮本百合子 「本棚」
・・・「これからはまた新田の力で宮方も勢いを増すでおじゃろ。楠や北畠が絶えたは惜しいが、また二方が世に秀れておじゃるから……」「嬉しいぞや。早う高氏づらの首を斬りかけて世を元弘の昔に復したや」「それは言わんでものこと。いかばかりぞその・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・本郷の大学前の通りなどは、たとい片側だけであるにもしろ、大学の垣根内に大きい高い楠の樹が立ち並んでいて、なかなか立派な光景だといってよいのであるが、しかしそれさえも、緑の色調が陰欝で、あまりいい感じがしなかった。大学の池のまわりを歩きながら・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
・・・小学の児童としては楠正成を非難する心を持ち、中学の少年としては教育者の僭越と無精神とを呪った。教育者の権威に煩わされなくなった時代には儕輩の愛校心を嘲り学問研究の熱心を軽蔑した。そうして道徳と名のつくものを蔑視することに異常な興味を覚えた。・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
出典:青空文庫