・・・殊に江戸文化の爛熟した幕末の富有の町家は大抵文雅風流を衒って下手な発句の一つも捻くり拙い画の一枚も描けば直ぐ得意になって本職を気取るものもあった。その中で左に右く画家として門戸を張るだけの技倆がありながら画名を売るを欲しないで、終に一回の書・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・何処の家の物でなければ喰えないなどと贅をいっていた代りには通人を気取ると同時に紳士を任じていた。 奥井から壱岐殿坂へ移って、紳士風が抜けて書生風となってからもやはり相当に見識を取っていて、時偶は鄙しい事を口にしても決して行う事はなかった・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・経の逞しさを持っていながら、座談会に出席すると、この頃の学生は朝に哲学書を読み、夕に低俗なる大衆小説を読んでいるのは、日本の文化のためになげかわしいというような口を利いて、小心翼々として文化の殉教者を気取るのである。一体どちらを読めというの・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・私は、どうせ、駄目な男と思われているのだから、先生に対して少しも気取る必要は無い。かえって私は、勝手気ままに振舞えるのである。その日、私は久しぶりで先生のお宅へお伺いして、大隅君の縁談を報告し、ついては一つ先生に媒妁の労をとっていただきたい・・・ 太宰治 「佳日」
・・・何せ昔の喧嘩友達だから、修治も俺には、気取る事が出来やしない」 ここに於いて、彼の無遠慮も、あきらかに意識的な努力であった事を知るに及んで、ますます私は味気無い思いを深くした。ウイスキイをおごらせて大あばれにあばれて来た、と馬鹿な自慢話・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・ただ胸が不快にごとごと鳴って、全身のネジが弛み、どうしても気取ることが出来ないのである。次々と、山海の珍味が出て来るのであるが、私は胸が一ぱいで、食べることができない。何も食べずに、酒ばかり呑んだ。がぶ、がぶ呑んだのである。雨のため、部屋の・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・自転行を壮にしたいたずらものがある、妙だなと思う間もなく車はすでに坂の中腹へかかる、今度は大変な物に出逢った、女学生が五十人ばかり行列を整えて向からやってくる、こうなってはいくら女の手前だからと言って気取る訳にもどうする訳にも行かん、両手は・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・殊にその豪傑志士を気取る処は俗受けのする処であってその実その紀行の大欠点である。某の東北徒歩旅行は始めよりこの徒歩旅行と両々相対して載せられた者であったが、その文章は全く幼稚で別に評するほどのものではなかった。独り楽天の文は既に老熟の境に達・・・ 正岡子規 「徒歩旅行を読む」
・・・なんかととんでもない文学者を気取るものも出来て来ます。 三つ子が百度も聞いた桃太郎の話をあきもしないで、いくどでもきく様な気持の人達はあきもしないで同じ様な事を書いたのをよみます。 そして又いかにもその人達にとっては少女小説と云うも・・・ 宮本百合子 「現今の少女小説について」
・・・瞬間つい気取るようにして、眼のなかには自分を調べる色がきらめくのである。ビルの昼の休みの洗面所の鏡の前に若い女事務員たちが並んで、顔をいじりながら喋る時の独得の調子で、盛んに喋っているのも面白い。 ベルリンで或る洒落た小物屋の店へ入って・・・ 宮本百合子 「この初冬」
出典:青空文庫