・・・一杯機嫌になったらしい小作人たちが挨拶を残して思い思いに帰ってゆく気配が事務所の方でしていた。冷え切った山の中の秋の夜の静まり返った空気の中を、その人たちの跫音がだんだん遠ざかって行った。熱心に帳簿のページを繰っている父の姿を見守りながら、・・・ 有島武郎 「親子」
・・・人の気配をかぎつけると彼れは何んとか身づくろいをしないではいられなかった。自然さがその瞬間に失われた。それを意識する事が彼れをいやが上にも仏頂面にした。「敵が眼の前に来たぞ。馬鹿な面をしていやがって、尻子玉でもひっこぬかれるな」とでもいいそ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ なんだか急に薄暗くなった部屋のなかで、浮かぬ顔をしてぼんやり坐っていると、隣りの人たちが湯殿から帰って来たらしい気配がした。 男は口笛を吹いていたが、不意に襖ごしに声をかけて来た。「どないだ? 退屈でっしゃろ。飯が来るまで、遊・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ そんなお君に中国の田舎から来た親戚の者は呆れかえって、葬式、骨揚げと二日の務めをすますと、さっさと帰って行き、家の中ががらんとしてしまった夜、異様な気配にふと眼をさまして、「誰?」 と暗闇に声を掛けたが、答えず、思わぬ大金をも・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ 温泉場のことゆえ病人も多く、はやりそうな気配が見えたので、一回二十銭の料金を三十銭に値上げしたが、それでも結構患者が集まった。「――どうです? 古座谷さん、この繁昌りようは、実際わしの思いつきには……」 さすがに驚きはしたが、・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・挽馬場の馬の気配も見ず、予想表も持たず、ニュースも聴かず、一つの競走が済んで次の競走の馬券発売の窓口がコトリと木の音を立ててあくと、何のためらいもなく誰よりも先きに、一番! と手をさし込むのだった。 何番が売れているのかと、人気を調べる・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・継子の夫を持てばやはり違うのかと奉公人たちはかんたんにすかされて、お定の方へ眼を配るとお定もお光にだけは邪険にするような気配はないようだった。 お定は気分のよい時など背中を起してちょぼんと坐り、退屈しのぎにお光の足袋を縫うてやったりして・・・ 織田作之助 「螢」
・・・しかしその人達はそれらしく動きまわる気配もなく依然として寝台のぐるりに凝立していた。 しばらく見ていた後、彼はまた眼を転じてほかの窓を眺めはじめた。洗濯屋の二階には今晩はミシンを踏んでいる男の姿が見えなかった。やはりたくさんの洗濯物が仄・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ ところで、月光による自分の影を視凝めているとそのなかに生物の気配があらわれて来る。それは月光が平行光線であるため、砂に写った影が、自分の形と等しいということがあるが、しかしそんなことはわかり切った話だ。その影も短いのがいい。一尺二尺く・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・ 姉が種々と衣服を着こなしているのを見ながら、彼は信子がどんな心持で、またどんなふうで着付けをしているだろうなど、奥の間の気配に心をやったりした。 やがて仕度ができたので峻はさきへ下りて下駄を穿いた。「勝子がそこらにいますで、よ・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
出典:青空文庫