・・・邸宅などの気配はなかった。やはり切り崩された赤土のなかからにょきにょき女の腿が生えていた。「○○の木などあるはずがない。何なんだろう?」 いつか友人は傍にいなくなっていた。―― 行一はそこに立ち、今朝の夢がまだ生なましているのを・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・かすかな気配ではあったが、しかし不思議にも秋風に吹かれてさわさわ揺れている草自身の感覚というようなものを感じるのであった。酔わされたような気持で、そのあとはいつも心が清すがしいものに変わっていた。 鏡や水差しに対している自分は自然そんな・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・二つくらい次の部屋で、何か気配がして、開けたてに扉が軋る音が聞えてきた。サーベルの鞘が鳴る。武石は窓枠に手をかけて、よじ上り、中をのぞきこんだ。「分るか。」「いや、サモールがじゅんじゅんたぎっとるばかりだ。――ここはまさか、娘を売物・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・彼がじいっと耳を澄ますと、納屋で蓆や空俵を置き換えている気配がした。まもなく、お里が喉頭に溜った痰を切るために「ウン」と云って、それから、小便をしているのが聞えて来た。「隠したな。」と清吉は心で呟いた。 妻は、やはり反物をかえさずに・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・が、田口のなんか事ありげな気配で栗本は直ぐ不安にされた。「また突発事件でもあったんか?」 田口は、今、こゝへ来しなにメリケン兵の警戒隊に喧嘩を吹っかけられた、と告げた。二三日前、将校が軍刀を抜いたのがもとで、両方が、いがみ合っている・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・川の縁の公会堂附近に人がだいぶ集っている気配がして唄のようなものがきこえてきた。 今日こそ、洗いざらい、検査官に、坑内が、どれだけ危険だか見せてやることが出来る。どれだけ法規違反ばかりをやっているか見せてやることが出来る。――彼は、どれ・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・せめて様々の料理を取寄せ、食卓を賑かにして、このどうにもならぬ陰鬱の気配を取払い度く思い、「うなぎと、それから海老のおにがら焼と茶碗蒸し、四つずつ、此所で出来なければ、外へ電話を掛けてとって下さい。それから、お酒。」 母はわきで聞い・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・などは井伏さんの作品には珍らしく、がむしゃらな、雄渾とでもいうべき気配が感ぜられるようである。 私は、第一巻のあとがきにも書いておいたように、井伏さんとはあまりにも近くまた永いつきあいなので、いま改って批評など、てれくさくて、とても出来・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・ 何やら、どうも、ただならぬ気配です。あがれ、と言っても、あがりません。この署長はひどく酒が好きで、私とはいい飲み相手で、もとから遠慮も何も無い仲だったのですが、その夜は、いつになく他人行儀で、土間に突立ったまま、もじもじして、「い・・・ 太宰治 「嘘」
一 たましいの、抜けたひとのように、足音も無く玄関から出て行きます。私はお勝手で夕食の後仕末をしながら、すっとその気配を背中に感じ、お皿を取落すほど淋しく、思わず溜息をついて、すこし伸びあがってお勝手・・・ 太宰治 「おさん」
出典:青空文庫