・・・町はずれを、蒼空へ突出た、青い薬研の底かと見るのに、きらきらと眩い水銀を湛えたのは湖の尖端である。 あのあたり、あの空…… と思うのに――雲はなくて、蓮田、水田、畠を掛けて、むくむくと列を造る、あの雲の峰は、海から湧いて地平線上を押・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ あれ見よ、その蜘蛛の囲に、ちらちらと水銀の散った玉のような露がきらめく…… この空の晴れたのに。―― 四 これには仔細がある。 神の氏子のこの数々の町に、やがて、あやかしのあろうとてか――その年、秋・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ 磯辺には、岩にぶつかって波がみごとに砕けては、水銀の珠を飛ばすように、散っていました。 猟師たちは唄をうたいながら、艪をこいだり、網を投げたりしていますと、急に雲が日の面をさえぎったように、太陽の光をかげらしました。 みんなは・・・ 小川未明 「黒い人と赤いそり」
・・・ 三 寒暖計の水銀が収縮してきた。氷点以下七度、十一度、十五度、そして、ついに二十度以下にさがってしまった。 ソビエットを守るパルチザンの襲撃は鋭利になりだした。日本の兵士は、寒気のために動作の敏活を失った。む・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・える事のなかった高峯の根雪、きらと光って消えかけた一瞬まえの笹の葉の霜、一万年生きた亀の甲、月光の中で一粒ずつ拾い集めた砂金、竜の鱗、生れて一度も日光に当った事のないどぶ鼠の眼玉、ほととぎすの吐出した水銀、蛍の尻の真珠、鸚鵡の青い舌、永遠に・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・例えば短時間の強い光源としてのアンダーソンの針金の電気爆発を使う代りに水銀のフィラメントの爆発を使ったり、また電扇の研究と聯関して気流の模様を写真するために懐炉灰の火の子を飛ばせるといったようなことも試みた。無闇に読みもしない書物を並べ立て・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
・・・ 手近にあった水銀燈を点じて玉虫を照らしてみた。あの美しい緑色は見えなくなって、さびたひわ茶色の金属光沢を見せたが、腹の美しい赤銅色はそのままに見られた。 三 杏仁水 ある夏の夜、神田の喫茶店へはいって一杯のア・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・朱を注いだような裸の皮膚には汗が水銀のように光っている。すべてがブランギンの油絵を思い出させる。 耳を聾するような音と、眼を眩するような光の強さはその中にかえって澄み通った静寂を醸成する。ただそれはものの空虚なための静かさでなくて、・・・ 寺田寅彦 「田園雑感」
・・・ 湖水の水と思ったのはみんな水銀であった。 私は非常に淋ししような心持になって来た。そして再び汀の血紅色の草に眼を移すと、その葉が風もないのに動いている。次第に強く揺れ動いては延び上がると思う間にいつかそれが本当の火焔に変っていた。・・・ 寺田寅彦 「夢」
・・・「第三とうしょう、水銀メタル。おい、みんな、大きいやつも出るんだよ。どうしてそんなにぐずぐずしてるんだ。」画かきが少し意地わるい顔つきをしました。「わたしのはくるみの木のうたです。」 すこし大きな柏の木がはずかしそうに出てきまし・・・ 宮沢賢治 「かしわばやしの夜」
出典:青空文庫