・・・ わが断腸亭奴僕次第に去り園丁来る事また稀なれば、庭樹徒に繁茂して軒を蔽い苔は階を埋め草は墻を没す。年々鳥雀昆虫の多くなり行くこと気味わるきばかりなり。夕立おそい来る時窓によって眺むれば、日頃は人をも恐れぬ小禽の樹間に逃惑うさまいと興あ・・・ 永井荷風 「夕立」
・・・衆人の攻撃も慮るところにあらず、美は簡単なりという古来の標準も棄てて顧みず、卓然として複雑的美を成したる蕪村の功は没すべからず。 芭蕉の句はことごとく簡単なり。強いてその複雑なるものを求めんか、鶯や柳のうしろ藪の前つゝじ活け・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・それは指摘してくれられた人には、没すべからざる恩誼があるから、それに対して公に謝したいためである。七 しかし体に疵のある人は、衣服でそれを掩っていられる限は掩っている。人に衣服を剥がれるまでは露呈しない。精神上にも自家の醜は・・・ 森鴎外 「不苦心談」
・・・嶺は五六年前に踰えしおりに似ず、泥濘踝を没す。こは車のゆきき漸く繁くなりていたみたるならん。軌道の二重になりたる処にて、向いよりの車を待合わすこと二度。この間長きときは三十分もあらん。あたりの茶店より茶菓子などもて来れど、飲食わむとする人な・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫