・・・いくら泳ぎが巧くたって大の男に死物狂いで掴まられた日にゃ往生だからね。尤も水のなかの仕事だから、能くは解らねえ。よくは解らねえが、まあそうだろうと云う皆さんの鑑定だ。 忰の体は、その時錨にかかって挙ったにゃ揚ったが、もう駄目だった。秋山・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・道太が小さい時分、泳ぎに来たり魚を釣ったりした川で、今も多勢子供が水に入っていた。岸から綸を垂れている男もあった。道太はことに無智であった自分を懐いだした。崖の上には裏口の門があったり、塀が続いたりして、いい屋敷の庭木がずっと頭の上へ枝を伸・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ その頃、両国の川下には葭簀張の水練場が四、五軒も並んでいて、夕方近くには柳橋あたりの芸者が泳ぎに来たくらいで、かなり賑かなものであった。思い返すと四、五十年もむかしの事で、わたくしもこの辺の水練場で始めて泳ぎを教えられたのであった。世・・・ 永井荷風 「向島」
・・・両人は毎日海の中へ飛び込んでいっしょに泳ぎ廻ります。爺さんは浜辺の砂の上から、毎日遠くこれを拝見して、なかなか若いものは活溌だと、心中ひそかに嘆賞しておりました。ある日の事三人で海岸を散歩する事になります。時に、お爺さんは老体の事ですから、・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・(因 私は北九州若松港に生まれて育ったので、小さいときから海には親しんだ。泳ぎも釣りも好きだった。その釣りの初歩のころ、やたらに河豚がかかるのであきれたものである。河豚は水面と海底との中間を泳いでいるし、食い意地が張っているので、エサを・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・第一余は泳ぎを知らぬのであるから水葬にせられた暁にはガブガブと水を飲みはしないかと先ずそれが心配でならぬ。水は飲まぬとした所で体が海草の中にひっかかっていると、いろいろの魚が来て顔ともいわず胴ともいわずチクチクとつつきまわっては心持が悪くて・・・ 正岡子規 「死後」
・・・ さてその人と私らは別れましたけれども、今度はもう要心して、あの十間ばかりの湾の中でしか泳ぎませんでした。 その時、海岸のいちばん北のはじまで溯って行った一人が、まっすぐに私たちの方へ走って戻って来ました。「先生、岩に何かの足痕・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・カン蛙は、けれども一本のたでから、ピチャンと水に飛び込んで、ツイツイツイツイ泳ぎました。泳ぎながらどんどん流されました。それでもとにかく向うの岸にのぼりました。 それから苔の上をずんずん通り、幾本もの虫のあるく道を横切って、大粒の雨にう・・・ 宮沢賢治 「蛙のゴム靴」
・・・ ルーテルの何代目の孫だとか云う男が、人々の間を游ぎ廻ってしきりに何か説いて居る。 一代目よりは体もやせこけて、ピコピコした様子をして居る。 こわれたカブトを気にして居るナイトのドンキホーテと同じ木の根に腰をかけて仲よくして居る・・・ 宮本百合子 「暁光」
・・・この決心のもとに虚栄と獣性と罪悪との渦巻く淵を彼岸に泳ぎ切る。若きダンテはビアトリースの弔いの鐘に胸を砕かれてこの淵に躍り入った。フロレンスの門の永久に彼に向かって閉じられてよりはさらに荒き浮世の波に乗る。彼の魂は世の汚れたる群れより離れて・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫