・・・色の浅黒い、輪郭の正しい立派な男、酒を飲めば必ず歌う、飲まざるもまた歌いながら働くという至極元気のよい男であった。いつも楽しそうに見えるばかりか、心ばせも至って正しいので、孤児には珍しいと叔父をはじめ土地の者みんなに、感心せられていたのであ・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・ 叔父さんは今に見ろ見ろと言ってすこぶる得意の笑みをその四角な肥えた浅黒い顔にみなぎらして鉄砲をかまえて、きょろきょろと見まわしてまた折り折り耳を立て物音を聞いてござった。 折り折り遠くでほえる犬の声が聞こえた。折り折り人の影がかな・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・ 色の浅黒い、眼に剣のある、一見して一癖あるべき面魂というのが母の人相。背は自分と異ってすらりと高い方。言葉に力がある。 この母の前へ出ると自分の妻などはみじめな者。妻の一言いう中に母は三言五言いう。妻はもじもじしながらいう。母は号・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・するとそのうちの、色の浅黒い男振りのいい捷っこそうな一人が立って、激した調子で云いかえした。それは吉原だった。将校が云いこめられているようだった。そして、兵卒の方が将校を殴りつけそうなけはいを示していた。そこには咳をして血を咯いている男も坐・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・ ドアが音も無くあいて、眼の大きい浅黒い青年の顔が、そっと室内を覗き込んだのを、男爵は素早く見とがめ、「おい、君。君は、誰だ。」見知らぬひとに、こんな乱暴な口のききかたをする男爵ではなかったのである。 青年は悪びれずに、まじめな・・・ 太宰治 「花燭」
・・・やや面長の、浅黒い顔です。服装も変っていません。みんなと同じ黒い事務服です。髪の形も変っていません。どこも、何も、変っていません。それでいて、その人は、たとえば黒いあげは蝶の中に緑の蝶がまじっているみたいに、あざやかに他の人と違って美しいの・・・ 太宰治 「東京だより」
・・・色は浅黒いけれど、小さく引きしまった顔である。身なりも清潔に、きちんとしている。左の足が少し悪く、こころもち引きずって歩く様子も、かえって可憐である。入江の家族全部を、神さまか何かのように尊敬している。れいの祖父の銀貨勲章をも、眼がくらむ程・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・道太は浅黒いその顔を見ながら話しかけた。「ええ、効性がないもんですから、いつお出でたんですの」おひろは銚子を取り上げながら辰之助に聞いたりした。「伯父さんの病気でね」「ああ、松山さんでしょう。あの体の大きい立派な顔の……二三日前・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・深川の湿地に生れて吉原の水に育ったので、顔の色は生れつき浅黒い。一度髪の毛がすっかり抜けた事があるそうだ。酒を飲み過ぎて血を吐いた事があるそうだ。それから身体が生れ代ったように丈夫になって、中音の音声に意気な錆が出来た。時々頭が痛むといって・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・色の浅黒い眉毛の濃い大柄な女で、髪を銀杏返しに結って、黒繻子の半襟のかかった素袷で、立膝のまま、札の勘定をしている。札は十円札らしい。女は長い睫を伏せて薄い唇を結んで一生懸命に、札の数を読んでいるが、その読み方がいかにも早い。しかも札の数は・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
出典:青空文庫