・・・繰り返しても繰り返しても飽くを知らぬのは、またこの懐旧談で、浮き世の波にもまれて、眉目のどこかにか苦闘のあとを残すかたがたも、「あの時分」の話になると、われ知らず、青春の血潮が今ひとたびそのほおにのぼり、目もかがやき、声までがつやをもち、や・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・突然こなたに向きて、しからば問いまいらせん、愛の盗人もし何の苦悩をも自ら覚えで浮世を歌い暮らさばいかに、これも何かの報酬あるべきか。 二郎は高く笑いてわが顔をながめ、わが答えをまつらんごとし。問いの主はわれ聞き覚えある声とは知れど思いい・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・それもその道理で、夫は今でこそ若崎先生、とか何とか云われているものの、本は云わば職人で、その職人だった頃には一通りでは無い貧苦と戦ってきた幾年の間を浮世とやり合って、よく搦手を守りおおさせたいわゆるオカミサンであったのであるし、それに元来が・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・、源三の亡くなった叔母と姉妹同様の交情であったので、我が親かったものの甥でしかも我が娘の仲好しである源三が、始終履歴の汚れ臭い女に酷い目に合わされているのを見て同情に堪えずにいた上、ちょうど無暗滅法に浮世の渦の中へ飛込もうという源三に出会っ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・助け上げ今日観た芝居咄を座興とするに俊雄も少々の応答えが出来夜深くならぬ間と心むずつけども同伴の男が容易に立つ気色なければ大吉が三十年来これを商標と磨いたる額の瓶のごとく輝るを気にしながら栄えぬものは浮世の義理と辛防したるがわが前に余念なき・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・声も美しくエス・キリスト、さては天国の歓喜をほめたたえて、重荷に苦しむものや、浮き世のつらさの限りをなめたものは、残らず来いとよび立てました。 おばあさんはそれを聞きましたが、その日はこの世も天国ほどに美しくって、これ以上のものをほしい・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・黒田はこれを「浮世の匂」をかいで歩くのだと言っていた。一緒に歩いていると、見る物聞く物黒田が例の奇警な観察を下すのでつまらぬ物が生きて来る。途上の人は大きな小説中の人物になって路傍の石塊にも意味が出来る。君は文学者になったらいいだろうと自分・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・そしていつまで経っても、死ぬと云うことは許されない。浮世の花の香もせぬ常闇の国に永劫生きて、ただ名ばかりに生きていなければならぬかと思うと、何とも知れぬ恐ろしさにからだがすくむ。生涯の出来事や光景が、稲妻のように一時に脳裏に閃いたと思うとそ・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・ 唯不幸にして自分は現代の政治家と交らなかったためまだ一度もあの貸座敷然たる松本楼に登る機会がなかったが、しかし交際と称する浮世の義理は自分にも炎天にフロックコオトをつけさせ帝国ホテルや精養軒や交詢社の階段を昇降させた。有楽座帝国劇場歌・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・しかし先生はこの薄暗く湿った家をば、それがためにかえってなつかしく、如何にも浮世に遠く失敗した人の隠家らしい心持ちをさせる事を喜んでいる。石菖の水鉢を置いた子窓の下には朱の溜塗の鏡台がある。芸者が弘めをする時の手拭の包紙で腰張した壁の上には・・・ 永井荷風 「妾宅」
出典:青空文庫