・・・この温泉場は、泊からわずか四五里の違いで、雪が二三尺も深いのでありまして、冬向は一切浴客はありませんで、野猪、狼、猿の類、鷺の進、雁九郎などと云う珍客に明け渡して、旅籠屋は泊の町へ引上げるくらい。賑いますのは花の時分、盛夏三伏の頃、唯今はも・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・いそいそとして、長風呂にはいり、退屈まぎれに、湯殿へやって来る浴客を掴まえては、世間話、その話の序でには、どこそこでよく効く灸をやっている、日蓮宗の施灸奉仕で、ありがたいことだ、げんにわたしもいま先……と、灸の話が出ることは必定……と、可哀・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ 何年か前まではこの温泉もほんの茅葺屋根の吹き曝しの温泉で、桜の花も散り込んで来たし、溪の眺めも眺められたし、というのが古くからこの温泉を知っている浴客のいつもの懐旧談であったが、多少牢門じみた感じながら、その溪へ出口のアーチのなかへは・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・家内の話に依れば、その湯村の大衆浴場は、たいへんのんびりして、浴客も農村のじいさんばあさんたちで、皮膚病に特効があるといっても、皮膚病らしい人は、ひとりも無く、家内のからだが一等きたないくらいで、浴室もタイル張で清潔であるし、お湯のぬるいの・・・ 太宰治 「美少女」
・・・それが通り過ぎてからしばらくすると、今度は宿の浴室のほうでだれかガーガーゲーゲーと途方もない野蛮な声を出して咽喉や舌のつけ根の掃除をする浴客がある。水鶏やほととぎすの鳴き声がいかにも静寂であるのに引きかえて、この人間の咽喉をせんたくする音が・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・それが浴衣がけの頬かぶりの浴客や、宿の女中たちの間に交じって踊っている不思議な光景は、自分たちのもっている昔からの盆踊りというものの概念にかなりな修正を加えさせる。それに蓄音機のとる音頭の伴奏の中には、どうも西洋楽器らしいものの音色が交じっ・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・尤も電燈を消さなかったのは風呂屋の主人であるが、それを消させなかったのは浴客である。サイレンが鳴り、花火が上がり、半鐘が鳴っている最中に踵を接して暖簾を潜って這入って行く浴客の数は一人や二人ではなかったのである。風呂屋の主人は意外な機会に変・・・ 寺田寅彦 「KからQまで」
・・・雨の日には浴客も少なく静かでよい。はいっているうちにもう燈がつく。疲労も不平も洗い流して蘇ったようになって帰る暗闇阪は漆のような闇である。阪の中程に街燈がただ一つ覚束ない光に辺りを照らしている。片側の大名邸の高い土堤の上に茂り重なる萩青芒の・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・ 三ガ日の繁忙をさけて来ている浴客だが、島田に結った女中が朱塗りの屠蘇の道具を運んで部屋毎に、「おめでとうございます。どうぞ本年もよろしく」と障子をあけた。正月が来たような、去年と変らぬ川瀬の音で来ぬような一種漠然とした心持・・・ 宮本百合子 「山峡新春」
・・・その方を見ると、浴客が海へ下りて行く階段を、エルリングが修覆している。 己が会釈をすると、エルリングは鳥打帽の庇に手を掛けたが、直ぐそのまま為事を続けている。暫く立って見ている内に、階段は立派に直った。「お前さんも海水浴をするかね」・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫