・・・それが通り過ぎてからしばらくすると、今度は宿の浴室のほうでだれかガーガーゲーゲーと途方もない野蛮な声を出して咽喉や舌のつけ根の掃除をする浴客がある。水鶏やほととぎすの鳴き声がいかにも静寂であるのに引きかえて、この人間の咽喉をせんたくする音が・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・それは、全身にいろいろの刺青を施した数名の壮漢が大きな浴室の中に言葉どおりに異彩を放っていたという生来初めて見た光景に遭遇したのであった。いわゆる倶梨伽羅紋々ふうのものもあったが、そのほかにまたたとえば天狗の面やおかめの面やさいころや、それ・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・……シナ人が籐寝台を売りに来たのを買って涼みながらT氏と話していると、浴室ボーイが船から出かけるのを見たから頼んで絵はがきを出してもらう。桟橋へあやしげな小船をこぎよせる者があるから見ていると盛装したシナ婦人が出て来た。白服に着かえた船のボ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・それと、土を入れた菓子折りとを並べて浴室の板の間に置いた。私が寝床にはいる前にそこらの蚊帳のすそなどに寝ているたまを捜して捕えて来て浴室のこの寝床に入れてやった。何も知らない子猫はやはり猫らしく咽を鳴らすのである。土の香をかがせてやると二度・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・すると、およその見当に温泉の浴室があり、その建物の高い軒下には天井の周囲を帯状にめぐらす明かり窓があって浴室内の電燈の光に照らされたその窓が細長い水平な光の帯となって空中にかかっている。どうも火の玉の経路がおおよそそれと同じ見当になるらしい・・・ 寺田寅彦 「人魂の一つの場合」
・・・台所で使う湯と同じボイラーで沸し、白いタイルで張りつめた、明るい浴室の湯槽に、なみなみと一杯にする。 別に脱衣室と云うようなものはなくても、浴室の扉の内側に、衣服をかけて置き、洗流し式のW・C・も、洗面台も、皆此室にとりつける。 従・・・ 宮本百合子 「書斎を中心にした家」
・・・料理場で働いている連中には、専用の浴室があった。 モスクワ市内にだけでもこういう理想的な厨房工場を、五つも六つも増設し、五ヵ年計画の終りには都会入口の七割五分、農村の五割を公衆食事で養おうという勢いだ。 もう一つ、いかにもソヴェト同・・・ 宮本百合子 「ソヴェト労働者の解放された生活」
・・・そして月二留の家賃で或る家のひどい離家、というより棄てられた浴室を借り、オリガとその娘との三人暮しがはじめられた。 それにしても、パリへ二度もゆき、フランス小唄のうまい、美食家の「美しく、煙草を吸い、奇智に富んで、男の知人をゆすぶること・・・ 宮本百合子 「逝けるマクシム・ゴーリキイ」
・・・『いでゆ』を作者と同じ立場に立って批評すれば、第一に、温泉浴室の柔艶な情趣を生かし得た事において成功である。湯気のためにほの白くなった檜の色も、湯気に包まれてほのかに輝く女の体も、この情趣を画面にあふれ出させるには十分だと言っていい。次・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫