・・・何人もが世界平等の苦痛を共に嘗め、共に味わなくてはならないように、各人の生活内容が変ってきた時、其処から初めて新しい感激が湧き、本当の愛が生れてくるだろう。然し私は、社会改造の事実は各人の信念にその根底を置くものだと考えている。そうして此の・・・ 小川未明 「囚われたる現文壇」
・・・またある時それは腰のあたりに湧き出して、彼の身体の内部へ流れ入る澄み透った溪流のように思えた。それは身体を流れめぐって、病気に汚れた彼の血を、洗い清めてくれるのだ。「俺はだんだん癒ってゆくぞ」 コロコロ、コロコロ、彼の小さな希望は深・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・と申すのは、『これが女難だな』という恐ろしい考えが、次第次第にたかまってきて、今までお幸のもとに通ったことを思うと『しまった』という念が湧き上るのでございます。それですからもし、お幸を連れて逃げでもすれば、行く先どんな苦労をするかも知れず、・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・この二つがまじり合って起こらないなら、それは病的徴候であり、人間性の邪道に傾きを持ってるものとして注意しなければならぬ。 青年にとって性の目ざめは肉体的な、そして霊的な出来ごとである。この湧き上ってくる衝動と、興奮と、美しく誘うが如きも・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・谷間の泉から湧き出る水は、その周囲に凍てついて、氷の岩が出来ていた。それが、丁度、地下から突き出て来るように、一昨日よりは昨日、昨日よりは今日の方がより高くもれ上って来た。彼は、やはり西伯利亜だと思った。氷が次第に地上にもれ上って来ることな・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・のガラン/\が鳴ったせつな、監房という監房に足踏みと壁たゝきが湧き上がった。独房の四つの壁はムキ出しのコンクリートなので、それが殷々とこもって響き渡った。――口笛が聞える。別な方からは、大胆な歌声が起る。 俺は起き抜けに足踏みをし、壁を・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・悲しい追憶の情は、其時、自分の胸を突いて湧き上って来た。自分も矢張その男と同じように、饑と疲労とで慄えたことを思出した。目的もなく彷徨い歩いたことを思出した。恥を忘れて人の家の門に立った時は、思わず涙が頬をつたって流れたことを思出した。・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・ 熱い同情が老人の胸の底から涌き上がった。その体は忽ち小さくなって、頭がぐたりと前に垂れて、両肩がすぼんで、背中が曲がった。丁度水を打ち掛けられた犬のような姿である。そしてあわただしげに右の手をずぼんの隠しに入れてありたけの貨幣を掴み出・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・跡には草原の中には赤い泉が湧き出したように、血を流して、女学生の体が横わっている。 女房は走れるだけ走って、草臥れ切って草原のはずれの草の上に倒れた。余り駆けたので、体中の脈がぴんぴん打っている。そして耳には異様な囁きが聞える。「今血が・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・それを行って見ずに、ぐずぐずしていて、朝夕お極まりに涌き上がって来る、悲しい霧を見ているのである。実に退屈である。ドリスがいかに巧みに機嫌を取ってくれても、歓楽の天地の閾の外に立って、中に這入る事の出来ない恨を霽らすには足らない。詰まらない・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
出典:青空文庫