・・・の本陣そのままの姿を残し、堀辰雄氏、室生犀星氏、佐藤春夫氏その他多くの作家が好んでこの油屋へ泊りに来て、ことに堀辰雄氏などは一年中の大半をここの大名部屋か小姓の部屋かですごしていたくらい、伊豆湯ヶ島の湯本館と同様、作家たちに好かれた旅館であ・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・ 小田原ではバスが待っていたが、箱根町行は満員なので空席のあった小涌谷行に乗込んだ。湯本までの道路は立派なドライヴウェーである。小田原征伐当時の秀吉に見せてやりたかったという気もした。塔の沢あたりからはぽつぽつ桜が見え出した。山桜もある・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・「五時には湯元へ着く予定なんだが、どうも、あの煙りは妙だよ。右へ行っても、左りへ行っても、鼻の先にあるばかりで、遠くもならなければ、近くもならない」「上りたてから鼻の先にあるぜ」「そうさな。もう少しこの路を行って見ようじゃないか・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ 白露の中にほつかり夜の山 湯元に辿り着けば一人のおのこ袖をひかえていざ給え善き宿まいらせんという。引かるるままに行けばいとむさくろしき家なり。前日来の病もまだ全くは癒えぬにこの旅亭に一夜の寒気を受けんこと気遣わしくやや落胆した・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・ 見わたすと、彼方の湯元から立ち昇る湯気が、周囲の金茶色の木立ちの根元から梢へとほの白く這い上って、溶けかかる霜柱が日かげの叢で水晶のように光って見える。 仲間達の喋る声、鍬の刃に石のあたる高い響などが、皆楽しそうに聞えて来る。・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
出典:青空文庫