湯島の境内 冴返る春の寒さに降る雨も、暮れていつしか雪となり、仮声使、両名、登場。上野の鐘の音も氷る細き流れの幾曲、すえは田川に入谷村、その仮声使、料理屋の門に立ち随・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・ 我に反るようになってから、その娘の言うのには、現の中ながらどうかして病が復したいと、かねて信心をする湯島の天神様へ日参をした、その最初の日から、自分が上がろうという、あの男坂の中程に廁で見た穢ない婆が、掴み附きそうにして控えているので・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・彼女が嫁いて来たばかりの頃は、大塚さんは湯島の方にもっと大きな邸を持っていたが、ある関係の深い銀行の破産から、他に貸してあったこの根岸の家の方へ移り住んだのだ。そういう時に成ると、おせんは何をして可いかも解らないような人で、自分の櫛箱の仕末・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・九月二日 曇 朝大学へ行って破損の状況を見廻ってから、本郷通りを湯島五丁目辺まで行くと、綺麗に焼払われた湯島台の起伏した地形が一目に見え上野の森が思いもかけない近くに見えた。兵燹という文字が頭に浮んだ。また江戸以前のこの辺の景色・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・「――湯島天神にこんなところがあるのかな」「なんです?」 風呂敷を結びながら、藍子が何心なく訊きかえした。「いや、――到頭来たんです」「へえ」 覚えずあげた藍子の顔と尾世川の顔とが正面に向き合ったが、二人とも笑うどこ・・・ 宮本百合子 「帆」
出典:青空文庫