・・・門前に黒塗の車が待っていて、狭い格子の隙から女の笑い声が洩れる。ベルを鳴らして沓脱に這入る途端「きっと帰っていらっしゃったんだよ」と云う声がして障子がすうと明くと、露子が温かい春のような顔をして余を迎える。「あなた来ていたのですか」・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・それは、デッキへ洩れると、直ぐにカラカラに、出来の悪い浅草海苔のようにコビリついてしまった。「チェッ、電気ブランでも飲んで来やがったんだぜ。間抜け奴!」「当り前よ。当り前で飲んでて酔える訳はねえや。強い奴を腹ん中へ入れといて、上下か・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・その声は室外へ漏れるほどだ。西宮も慰めかねていた。「へい、お誂え」と、仲どんが次の間へ何か置いて行ッたようである。 また障子を開けた者がある。次の間から上の間を覗いて、「おや、座敷の花魁はまだあちらでございますか」と、声をかけたのは・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・という作品は、作者が心いっぱいにもっている思いを、そのまま自然に表現の出来ないために、まるで猿ぐつわのすき間から洩れる声のようになっている。口だけ動かしているが声がききとれないような作品とも云える。見える見えない周囲の圧迫は、こんな不具な作・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第五巻)」
・・・止り木から止り木へ、ひょいひょい身軽に移る度毎に、細く削った竹籠のすきから、巻いた柔かそうな胸毛の洩れる姿が、何ともいえず美くしかった。「いいわね」と私が云う。「僕等も何か飼ってみようか」 良人が云う。帰京すると、彼はいつの・・・ 宮本百合子 「小鳥」
・・・それで奥さんは手水に起きる度に、廊下から見て、秀麿のいる洋室の窓の隙から、火の光の漏れるのを気にしているのである。 ―――――――――――――――― 秀麿は学習院から文科大学に這入って、歴史科で立派に卒業した。卒業論・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・笛を切ったら、すぐ死ねるだろうと思ったが息がそこから漏れるだけで死ねない。深く深くと思って、力いっぱい押し込むと、横へすべってしまった。刃はこぼれはしなかったようだ。これをうまく抜いてくれたらおれは死ねるだろうと思っている。物を言うのがせつ・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
・・・この四角な部屋に並べられた壺や寝台や壁や横顔や花々の静まった静物の線の中から、かすかな一条の歎声が洩れるとは。彼は彼女のその歎声の秘められたような美しさを聴くために、戸外から手に入る花という花を部屋の中へ集め出した。 薔薇は朝毎に水に濡・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・ 暴風が起って、海が荒れて、波濤があの小家を撃ち、庭の木々が軋めく時、沖を過ぎる舟の中の、心細い舟人は、エルリングが家の窓から洩れる、小さい燈の光を慕わしく思って見て通ることであろう。・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・たとえ眠られぬ真夜中に、堅い腰掛けの上で痛む肩や背や腰を自分でどうにもできないはかなさのため、幽かな力ない嘆息が彼らの口から洩れるにしても。 私はこんな空想にふけりながら、ぼんやり乳飲み児を見おろしている母親の姿をながめ、甘えるらしく自・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫