・・・ 戸外の広場の一廓、総湯の前には、火の見の階子が、高く初冬の空を抽いて、そこに、うら枯れつつも、大樹の柳の、しっとりと静に枝垂れたのは、「火事なんかありません。」と言いそうである。 横路地から、すぐに見渡さるる、汀の蘆の中に舳が見え・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ が、引続いた火沙汰のために、何となく、心々のあわただしさ、見附の火の見櫓が遠霞で露店の灯の映るのも、花の使と視めあえず、遠火で焙らるる思いがしよう、九時というのに屋敷町の塀に人が消えて、御堂の前も寂寞としたのである。 提灯もやがて・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ ト突出た廂に額を打たれ、忍返の釘に眼を刺され、赫と血とともに総身が熱く、たちまち、罪ある蛇になって、攀上る石段は、お七が火の見を駆上った思いがして、頭に映す太陽は、血の色して段に流れた。 宗吉はかくてまた明神の御手洗に、更に、氷に・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・分けて今年は暖さに枝垂れた黒髪はなお濃かで、中にも真中に、月光を浴びて漆のように高く立った火の見階子に、袖を掛けた柳の一本は瑠璃天井の階子段に、遊女の凭れた風情がある。 このあたりを、ちらほらと、そぞろ歩行の人通り。見附正面の総湯の門に・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・喬は屈託した気持で、思いついたまま、勝手を知ったこの家の火の見へ上って行こうと思った。 朽ちかけた梯子をあがろうとして、眼の前の小部屋の障子が開いていた。なかには蒲団が敷いてあり、人の眼がこちらを睨んでいた。知らぬふりであがって行きなが・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・市場の辻の消防屯所夜でも昼でも火の見で見張りぐるぐる見回る 北は……… 南は……… 西は……… 東は………どっかに煙はさて見えないか。 わが国の教育家、画家、詩人ならびに出版業・・・ 寺田寅彦 「火事教育」
・・・道は少し北へ曲って、長屋の間を行くこと半町ばかりにして火の見梯子の立っている四辻に出る。このあたりを大音寺前と称えたのは、四辻の西南の角に大音寺という浄土宗の寺があったからである。辻を北に取れば竜泉寺の門前を過ぎて千束稲荷の方へ抜け、また真・・・ 永井荷風 「里の今昔」
出典:青空文庫