・・・一は全く無心の間事である。一は雕虫の苦、推敲の難、しばしば人をして長大息を漏らさしむるが故である。 今秋不思議にも災禍を免れたわが家の庭に冬は早くも音ずれた。筆を擱いてたまたま窓外を見れば半庭の斜陽に、熟したる梔子燃るが如く、人の来って・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・ところが相手は是まで大分諸処方々無心に歩き廻った事があると見えて、僕よりはずっと馴れているらしい。「いくらでも結構です。足りなければ又いただきに来ますから。きょうはいくらでも御都合のいいだけで結構です。」「じゃ、これだけ持っておいで・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・彼の癇癖は彼の身辺を囲繞して無遠慮に起る音響を無心に聞き流して著作に耽るの余裕を与えなかったと見える。洋琴の声、犬の声、鶏の声、鸚鵡の声、いっさいの声はことごとく彼の鋭敏なる神経を刺激して懊悩やむ能わざらしめたる極ついに彼をして天に最も近く・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・「無心ながら宿貸す人に申す」とややありてランスロットがいう。「明日と定まる仕合の催しに、後れて乗り込む我の、何の誰よと人に知らるるは興なし。新しきを嫌わず、古きを辞せず、人の見知らぬ盾あらば貸し玉え」 老人ははたと手を拍つ。「望める・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・その家人と共に一家に眠食して団欒たる最中にも、時として禁句に触れらるることあれば、その時の不愉快は譬えんに物なし。無心の小児が父を共にして母を異にするの理由を問い、隣家には父母二人に限りて吾が家に一父二、三母あるは如何などと、不審を起こして・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・全くの無心でこの大きな火の影を見て居るとその火の中に俄に人の顔が現れた。 見ると西洋の画に善くある、眼の丸い、くるくるした子供の顔であった。それが忽ち変って高帽の紳士となった。もっとも帽の上部は見えて居らぬ。首から下も見えぬけれど何だか・・・ 正岡子規 「ランプの影」
・・・すすきの花の向い火や、きらめく赤褐の樹立のなかに、鹿が無心に遊んでいます。ひとは自分と鹿との区別を忘れ、いっしょに踊ろうとさえします。 宮沢賢治 「『注文の多い料理店』新刊案内」
・・・丁度無心に咲いている花の、花自身は知らぬ深い美に似たものが、ふき子の身辺にあった。陽子は、自分の生活の苦しさなどについて一言もふき子に話す気になれなかった。 四 妹の百代、下の悌、忠一、又従兄の篤介、陽子まで加・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 恭二は、行末の知れて居る様な傾いた実家を思うと、金の無心も出来ず、まして、他の人達のする様にそっと母親の小遣いを曲げてもらうなどと云う事も、母の愛の薄いために此家へ来た位だから到底出来る事ではなかった。 中に入って板挾みの目に・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・子供の正直な心は無心に父親の態度を非難していたのです。大きい愛について考えていた父親は、この小さい透明な心をさえも暖めてやることができませんでした。 私は自分を呪いました。食事の時ぐらいはなぜ他の者といっしょの気持ちにならなかったのでし・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫