・・・父は無類のおひとよしの癖に悪辣ぶりたがる性格を持っていて、そのひとりむすこである彼にさえ、わざと意地わるくかかっていた。彼がどのようなしくじりをしても、せせら笑って彼を許した。そしてわきを向いたりなどしながら言うのであった。人間、気のきいた・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・正直無類のやわらかな心情が、あんまり、あらわに出ているので、私は、はらはらした。山岸さんから「いちばんいい」という折紙をつけられている人ではないか。も少し、どうにかならんかなあ、と不満であった。私は、年少の友に対して、年齢の事などちっとも斟・・・ 太宰治 「散華」
・・・この頑丈の鉄仮面をかぶり、ふくみ声で所謂創作の苦心談をはじめたならば、案外荘重な響きも出て来て、そんなに嘲笑されずにすむかも知れぬ、などと小心翼々、臆病無類の愚作者は、ひとり淋しくうなずいた。 昭和十一年十月十三日から同年十一月十二日ま・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・子供の騒ぎ廻る部屋にて仕事をするはいたく難儀にして、引越そうか、とふっと思う事あれども、わが前途の収入も心細ければ、また、無類のおっくうがりの男なれば、すべて沙汰やみとなるなり。一部屋欲しと思う心はたしかにあり。居宅に望なき人の心境とはおの・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・弟妹たちは、それゆえ此の長兄を少しく、なめているようなふうがあるけれども、それは弟妹たちの不遜な悪徳であって、長兄には長兄としての無類のよさもあるのである。嘘を、つかない。正直である。そうして所謂人情には、もろい。いまも、ラプンツェルが、釜・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・ ポルジイとドリスとはその頃無類の、好く似合った一対だと称せられていた。これは誰でもそう思う。どこへでも二人が並んで顔を出すと、人が皆囁き合う。男はしっかりして危げがなく、気力が溢れて人を凌いで行く。女はすらりとして、内々少し太り掛けて・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・しかし暑いことも無類であった。それは乾燥したさわやかな暑さとちがって水蒸気で飽和された重々しい暑さであった。「いつでもまるで海老をうでたように眼の中まで真赤になっていた」という母の思い出話をよく聞かされた。もっとも虫捕りに涼しいのもあった。・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・ これに反して停車場内の待合所は、最も自由で最も居心地よく、聊かの気兼ねもいらない無類上等の Caf である。耳の遠い髪の臭い薄ぼんやりした女ボオイに、義理一遍のビイルや紅茶を命ずる面倒もなく、一円札に対する剰銭を五分もかかって持て来る・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・よし一つや二つ何か立派などっしりした物があったにしても、古今に通じて世界第一無類飛切りとして誇るには足りないような気がする。然らば何をか最も無類飛切りとしようか。貧乏臭い間の抜けた生活のちょっとした処に可笑味面白味を見出して戯れ遊ぶ俳句、川・・・ 永井荷風 「妾宅」
学者安心論 店子いわく、向長屋の家主は大量なれども、我が大家の如きは古今無類の不通ものなりと。区長いわく、隣村の小前はいずれも従順なれども、我が区内の者はとかくに心得方よろしからず、と。主人は以前の婢僕を誉め、・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
出典:青空文庫