・・・……その森、その樹立は、……春雨の煙るとばかり見る目には、三ツ五ツ縦に並べた薄紫の眉刷毛であろう。死のうとした身の、その時を思えば、それも逆に生えた蓬々の髯である。 その空へ、すらすらと雁のように浮く、緋縮緬の女の眉よ! 瞳も据って、瞬・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ さまでの距離はないが、月夜には柳が煙るぐらいな間で、島へは棹の数百ばかりはあろう。 玉野は上手を遣る。 さす手が五十ばかり進むと、油を敷いたとろりとした静な水も、棹に掻かれてどこともなしに波紋が起った、そのせいであろう。あの底・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ちろちろと舌でなめるが如く、はりあいのない呑みかたをしながら、乱風の奥、黄塵に烟る江の島を、まさにうらめしげに、眺めていたようである。背を丸くし、頬杖ついて、三十分くらい、じっとしていた。このまま坐って死んでゆきたいと、つくづく思った。新聞・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・魚容は気抜けの余りくらくら眩暈して、それでも尚、この場所から立ち去る事が出来ず、廟の廊下に腰をおろして、春霞に煙る湖面を眺めてただやたらに溜息をつき、「ええ、二度も続けて落第して、何の面目があっておめおめ故郷に帰られよう。生きて甲斐ない身の・・・ 太宰治 「竹青」
・・・魚容も真似して大きく輪を描いて飛びながら、脚下の孤洲を見ると、緑楊水にひたり若草烟るが如き一隅にお人形の住家みたいな可憐な美しい楼舎があって、いましもその家の中から召使いらしき者五、六人、走り出て空を仰ぎ、手を振って魚容たちを歓迎している様・・・ 太宰治 「竹青」
・・・河のあなたに烟る柳の、果ては空とも野とも覚束なき間より洩れ出づる悲しき調と思えばなるべし。 シャロットの路行く人もまた悉くシャロットの女の鏡に写る。あるときは赤き帽の首打ち振りて馬追うさまも見ゆる。あるときは白き髯の寛き衣を纏いて、長き・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 翌朝は高い二階の上から降るでもなく晴れるでもなく、ただ夢のように煙るKの町を眼の下に見た。三人が車を並べて停車場に着いた時、プラットフォームの上には雨合羽を着た五六の西洋人と日本人が七時二十分の上り列車を待つべく無言のまま徘徊していた・・・ 夏目漱石 「初秋の一日」
未練も容謝もない様に、天から真直な大雨が降って居る。 静かな、煙る様な春雨も好いには違いないけれ共、斯うした男性的な雨も又好いものだ。 木端ぶきの書斎の屋根では、頭がへこむほどひどい音をたてて居るし、雨だれも滝の様・・・ 宮本百合子 「無題(三)」
・・・それに比べると、欅の葉は、欅が大木であるに似合わず小さい優しい形で、春芽をふくにも他の落葉樹よりあとから烟るような緑の色で現われて来、秋は他の落葉樹よりも先にあっさりと黄ばんだ葉を落としてしまう。この対照は、常緑樹と落葉樹というにとどまらず・・・ 和辻哲郎 「松風の音」
出典:青空文庫