・・・たとえば汽車の煤煙の匂は何人も嗅ぎたいと思うはずはない。けれどもあるお嬢さんの記憶、――五六年前に顔を合せたあるお嬢さんの記憶などはあの匂を嗅ぎさえすれば、煙突から迸る火花のようにたちまちよみがえって来るのである。 このお嬢さんに遇った・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・雪は莟を持った沈丁花の下に都会の煤煙によごれていた。それは何か僕の心に傷ましさを与える眺めだった。僕は巻煙草をふかしながら、いつかペンを動かさずにいろいろのことを考えていた。妻のことを、子供たちのことを、就中姉の夫のことを。…… 姉の夫・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・一本ずつ眼をくぎって行くプラットフォオムの柱、置き忘れたような運水車、それから車内の誰かに祝儀の礼を云っている赤帽――そう云うすべては、窓へ吹きつける煤煙の中に、未練がましく後へ倒れて行った。私は漸くほっとした心もちになって、巻煙草に火をつ・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・川口界隈の煤煙にくすんだ空の色が、重くこの橋の上に垂れている。川の水も濁っている。 ともかく、陰気だ。ひとつには、この橋を年中日に何度となく渡らねばならぬことが、さように感じさせるのだろう。橋の近くにある倉庫会社に勤めていて、朝夕の出退・・・ 織田作之助 「馬地獄」
・・・あらず、あらず、時は必ず来たるべし―― 大空隈なく晴れ都の空は煤煙たなびき、沖には真帆片帆白く、房総の陸地鮮やかに見ゆ、射す日影、そよぐ潮風、げに春ゆきて夏来たりぬ、楽しかるべき夏来たりぬ、ただわれらの春の永久に逝きしをいかにせん――・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ ふと煤煙にすゝけた格子窓のさきから、聞覚えのある声がした。「おや、君等もやられたんか!」窓際にいた留吉は、障子の破れからのぞいて、びっくりして叫んだ。 そこには、他の醤油屋で働いていた同村の連中が、やはり信玄袋をかついで六七人・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・都市の煤煙問題、鉱山の煙害問題みんなそうである。灰吹から大蛇を出すくらいはなんでもないことであるが、大蛇は出てもあまり役に立たない。しかし鉱山の煙突から採れる銅やビスマスや黄金は役に立つのである。 尤も喫煙家の製造する煙草の煙はただ空中・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・ 草市 七月十三日の夕方哲学者のA君と二人で、京橋ぎわのあるビルディングの屋上で、品川沖から運ばれて来るさわやかな涼風の流れにけんぐしながら眼下に見通される銀座通りのはなやかな照明をながめた。煤煙にとざされた大都市の空に銀河は見えな・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・くも一時戸まどいをさせた、そのオリジナリティに対する賛美に似たあるものと、もう一つには、その独創的計画をどこまでも遂行しようという耐久力の強さ、しかも病弱の体躯を寒い上空の風雨にさらし、おまけに渦巻く煤煙の余波にむせびながら、飢渇や甘言の誘・・・ 寺田寅彦 「時事雑感」
・・・また四月英国の閉塞隊がベルギー海岸のドイツ潜水艇の根拠地を襲撃した場合にも、味方の行動を掩蔽するために煤煙の障屏を使用しようとしたのが肝心の時に風が変って非常の違算を来たしたという事である。これらの場合に充分な気象観測の材料が備わっていて優・・・ 寺田寅彦 「戦争と気象学」
出典:青空文庫