・・・夜に入りて波ますます狂い波止場の崩れしかと怪しまるる音せり。 朝まだき、東の空ようやく白みしころ、人々皆起きいでて合羽を着、灯燈つけ舷燈携えなどして波止場に集まりぬ。波止場は事なかりき。風落ちたれど波なお高く沖は雷の轟くようなる音し磯打・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・器械に狂いの生じたのを正作が見分し、修繕しているのらしい。 桂の顔、様子! 彼は無人の地にいて、我を忘れ世界を忘れ、身も魂も、今そのなしつつある仕事に打ちこんでいる。僕は桂の容貌、かくまでにまじめなるを見たことがない。見ているうちに、僕・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・恋してからは目が狂いがちだから、恋するまでに自分の発情を慎しんで知性を働らかせなければならぬ。よほどのロマンチストでない限り、一と目で恋には落ちぬ。二た目でそれほどでないと思えば憧憬は冷却する。自分で、自分を溺らすのが一番いけない。それほど・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・しかし終に魚は狂い疲れた。その白い平を見せる段になってとうとうこっちへ引寄せられた。その時予の後にあってたまを何時か手にしていた少年は機敏に突とその魚を撈った。 魚は言うほどもないフクコであったが、秋下りのことであるし、育ちの好いのであ・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・ず息を入れてからが凄まじいものなり俊雄は二月三月は殊勝に消光たるが今が遊びたい盛り山村君どうだねと下地を見込んで誘う水あれば、御意はよし往なんとぞ思う俊雄は馬に鞭御同道仕つると臨時総会の下相談からまた狂い出し名を変え風俗を変えて元の土地へ入・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・「なんだか、俺は――気でも狂いそうだ」 と串談らしく高瀬が言うと、お島は縁側から空を眺めて、「髪でも刈って被入っしたら」 と軽い返事をした。 急に大きな蜜蜂がブーンという羽の音をさせて、部屋の中へ舞い込んで来た。お島は急・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・このままだと、僕は、気が狂いそうだ。とにかく、東京から逃げたいんだ。」 そのひとから逃げたくなって、旅に出るのかしら、とふと私は考えました。「お留守のあいだに、ピストル強盗がはいったら、どうしよう。」 と私は笑いながら、そう言い・・・ 太宰治 「おさん」
・・・私の眼には狂いが無い筈だ。たしかにそうだ。ああ、我慢ならない。堪忍ならない。私は、あの人も、こんな体たらくでは、もはや駄目だと思いました。醜態の極だと思いました。あの人はこれまで、どんなに女に好かれても、いつでも美しく、水のように静かであっ・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・やがて狂い疲れて樹蔭や草原に眠ってしまう。草原に花をたずねて迷う蜂の唸りが聞える。 日が陰って沼の面から薄糸のような靄が立ち始める。 再び遠くから角笛の音、犬の遠吠えが聞えて来る。ニンフの群はもうどこへ行ったか影も見えない。・・・ 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
・・・「思い切ったる死に狂い見よ」「青天に有明月の朝ぼらけ」と付けたモンタージュと、放免状を突きつけられた囚人の画像の次に「春の雪解け川」を出した付け合わせと、情は別でも、手法においてどれだけの差別があるか。 映画でしばしば用いられる推移の手・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
出典:青空文庫