・・・またそんな記憶がかつての自分にあったような、一種訝かしい甘美な気持が堯を切なくした。 何ゆえそんな空想が起こって来るのか? 何ゆえその空想がかくも自分を悲しませ、また、かくも親しく自分を呼ぶのか? そんなことが堯には朧げにわかるように思・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・真実くるし過ぎた一夏ではあったが、くるしすぎて、いまでは濃い色彩の着いた絵葉書のように甘美な思い出にさえなっていた。白い夕立の降りかかる山、川、かなしく死ねるように思われた。水上、と聞いて、かず枝のからだは急に生き生きして来た。「あ、そ・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・「甘美なる恋愛」の序曲と称する「もののはずみ」とかいうものの実況は、たいていかくの如く、わざとらしく、いやらしく、あさましく、みっともないものである。 だいたいひとを馬鹿にしている。そんな下手くそな見えすいた演技を行っていながら、何かそ・・・ 太宰治 「チャンス」
・・・ それとほぼ同じようなわけで、もはや青春の活気の源泉の枯渇しかけた老年者が、映画の銀幕の上に活動する花やかに若やいだキュテーラの島の歓楽の夢や、フォーヌの午後の甘美な幻を鑑賞することによって、若干生理的に若返るということも決して不可能で・・・ 寺田寅彦 「映画と生理」
・・・とりわけ女の人の声には、どこか皮膚の表面を撫でるような、甘美でうっとりとした魅力があった。すべての物象と人物とが、影のように往来していた。 私が始めて気付いたことは、こうした町全体のアトモスフィアが、非常に繊細な注意によって、人為的に構・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・時に小禽、既に終日日光に浴し、歌唄跳躍して疲労をなし、唯唯甘美の睡眠中にあり。汝等飛躍してこれを握む。利爪深くその身に入り、諸の小禽、痛苦又声を発するなし。則ちこれを裂きて擅にたんじきす。或は沼田に至り、螺蛤を啄む。螺蛤軟泥中にあり、心柔に・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・四辺の静寂が四箇月ぶりで、彼に温泉のように甘美なものに感じられた。 うっとりとした彼の目には、拭きこんだ硝子越しに、葉をふるい落した冬の欅の優美な細枝が、くっきり青空に浮いているのが見えた。ほんの僅かな白雲が微に流れて端の枝を掠め、次の・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ 鐘が鳴るのに、まだ、まだ時間はあるというくつろぎ、云い難い甘美がある。朝は薄寒いようで、賑やかでも引緊った空気は、昇る太陽につれて膨み機嫌よくなって来る。手に触り体が触れるあらゆる建物の部分は、幸福に乾いてぽかぽかしている。見えない運動場・・・ 宮本百合子 「思い出すかずかず」
・・・アンナの不幸を目にも心にもまざまざと描きつくした悲劇であるにかかわらず、私たちがそれを読んでいるときに受ける感動は美しくて、その震撼には不思議な甘美さがこめられている。この芸術の秘密は何だろう。すべてのすぐれた文学が、悲劇でさえも、その悲し・・・ 宮本百合子 「幸福の感覚」
・・・撓いつつ甘美な苦痛を感じて、折れないという自覚のよろこび。 抽象的なことを喋って御免なさい。でも時々はこれもいるのです。私の精神衛生の見地からね。ああ、私共は、沢山沢山感じて生きているのだからね。 ――○―― この頃沢山読・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
出典:青空文庫