・・・家の隣りは駄菓子屋だが、夏になると縁台を出して氷水や蜜豆を売ったので、町内の若い男たちの溜り場であった。安子が学校から帰って、長い袂の年頃の娘のような着物に着替え、襟首まで白粉をつけて踊りの稽古に通う時には、もう隣りの氷店には五六人の若い男・・・ 織田作之助 「妖婦」
・・・ 電灯屋、新聞屋、そばや、洋食屋、町内のつきあい――いろんなものがやって来る。室の中に落着いて坐ってることが出来ない。夜も晩酌が無くては眠れない。頭が痛んでふらふらする。胸はいつでもどきん/\している。…… と云って彼は何処へも訪ね・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・次第に財産も殖え、体重も以前の倍ちかくなって、町内の人たちの尊敬も集り、知事、政治家、将軍とも互角の交際をして、六十八歳で大往生いたしました。その葬儀の華やかさは、五年のちまで町内の人たちの語り草になりました。再び、妻はめとらなかったのであ・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・まずまあ、この町内では有名になれる。人の細君と駈落ちしたまえ。え?」 僕はどうでもよかった。酒に酔ったときの青扇の顔は僕には美しく思われた。この顔はありふれていない。僕はふとプーシュキンを思い出したのである。どこかで見たことのある顔と思・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・たとい親身の兄弟でも、同じ屋根の下に住んで居れば、気まずい事も起るものだ、と二人とも口に出しては言わないが、そんなお互の遠慮が無言の裡に首肯せられて、私たちは同じ町内ではあったが、三町だけ離れて住む事にしたのである。それから三箇月経って、こ・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・私は、ことし二十四になりますけれども、それでもお嫁に行かず、おむこさんも取れずにいるのは、うちの貧しいゆえもございますが、母は、この町内での顔ききの地主さんのおめかけだったのを、私の父と話合ってしまって、地主さんの恩を忘れて父の家へ駈けこん・・・ 太宰治 「燈籠」
・・・呉服屋の豊田さんなら、私の家と同じ町内でしたから、私はよく知っているのです。先代の太左衛門さんは、ふとっていらっしゃいましたから、太左衛門というお名前もよく似合っていましたが、当代の太左衛門さんは、痩せてそうしてイキでいらっしゃるから、羽左・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・いわゆるイニシアルでも、T. T. とだけでは、例えば自分と同番地の町内につい近頃まで四人もいた。しかし、T. T. H. Y. という風に四字の組合せならば暗合のチャンスはずっと少なくなる。尤も大井愛といったような姓名だと Oo I Ai・・・ 寺田寅彦 「KからQまで」
・・・これからそろそろ庭へ出て睡蓮の池の水をのんで、そうして彼の仕事の町内めぐりにとりかかるのであろう。自分はこれから寝て、明日はまた、次に来る来年の「試験」の準備の道程に覚束ない分厘の歩みを進めるのである。・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・するとまもなく玄関の天井から蛆が降り出した。町内の掃除人夫を頼んで天井裏へ上がって始末をしてもらうまでにはかなり不愉快な思いをしなければならなかった。それ以来もう猫いらずの使用はやめてしまった。猫いらずを飲んだ人は口から白い煙を吐くそうであ・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
出典:青空文庫