・・・そういう行為をあえてするという事は、すなわち彼が発狂している事の確かな証拠であるとこういう至極もっともらしい理由から、彼は狂気しているという事にきわめをつけられた。その結果として、それ以来はその前後の足を、たしか一本ずつ重い冷たい鉄の鎖で縛・・・ 寺田寅彦 「解かれた象」
・・・村へ帰って来ても発狂は治らなかった。然し、何かひどく工合よい機械のように、毎年毎年、年児に女や男の児を産みつづけた。村の人は愕いて居心地わるく感じていた。然し亭主がいて、皆其一隊を養っている以上別に云う程のことはない。―― 村の在郷軍人・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・盆の十四日が百姓平次郎に鉈をふるわせる厄日であり、室三次の命の綱である馬が軍隊に徴発され、その八十円を肥料屋と高利貸に役場で押えられた室三次の女房は絶望して発狂した等々。それらを部落の一般経済事情の分析とともに、僕なるプロレタリア作家とは組・・・ 宮本百合子 「一連の非プロレタリア的作品」
・・・大森の家へ行ったにしろ、それは実家の父親が発狂して職についていられなくなり、故郷へ帰ったからであった。稲子さんは自分の二人の子供達を食わせ、おばあさんを養わねばならない上に、獄中の良人のために心労をし、しかも当時の仕事の性質上、金は極端にと・・・ 宮本百合子 「窪川稲子のこと」
・・・つづけて直ぐ市長が発狂する。ピーピーつづけざま呼笛が鳴る。狭窄衣がとび出す。赤いプラカートがスルスルと舞台一杯におりて来て、舞台からとびおりて俳優が観客席の間を右往左往、小鬼みたいに叫びながら馳けずりまわり、パッとそれが消え、再び舞台が明る・・・ 宮本百合子 「ソヴェトの芝居」
・・・謙吉さんという人は若くてアメリカへゆき、財産をこしらえて帰ったが、その頃は発狂して、養生していた。おとなしい気違いで、障子に指をつっこんで穴をこしらえ、一日じゅうそこから外を見て暮している、という話が子供心に印象された。この謙吉さんという人・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・ ごく最近、私の一人の従弟は、遺伝性の脳梅毒で発狂したピアニストの卵に危く殺されかかった実例がある。私の五つで死んだ妹は、やはり脳に異状が起っているのを心づかず治療をまかせた医師の手落ちで死亡した。 私は、変質者、中毒患者、悪疾な病・・・ 宮本百合子 「花のたより」
・・・ニイチェが頭のへんな男で、とうとう発狂したのは隠れのない事実である。 芸術を危険だとすれば、学問は一層危険だとすべきである。Hegel 派の極左党で、無政府主義を跡継ぎに持っている Max Stirner の鋭利な論法に、ハルトマンは傾・・・ 森鴎外 「沈黙の塔」
・・・そして発狂するか。額を石壁に打ち附けるように、人に向かって説くか。救世軍の伝道者のように辻に立って叫ぶか。馬鹿な。己は幼穉だ。己にはなんの修養もない。己はあの床の間の前にすわって、愉快に酒を飲んでいる。真率な、無邪気な、そして公々然とその愛・・・ 森鴎外 「余興」
・・・そして、梶に、昨日憲兵が来ていうには、栖方は発狂しているから彼の云いふらして歩くこと一切を信用しないでくれと、そんな注意を与えて帰ったということだった。「それで、栖方の歩いたところへは、皆にそう云うよう、という話でしたから、お宅へもちょ・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫