・・・ 現に拙者が貴所の希望に就き先生を訪うた日などは、先生の梅子嬢を罵る大声が門の外まで聞えた位で、拙者は機会悪しと見、直に引返えしたが、倉蔵の話に依ればその頃先生はあの秘蔵子なるあの温順なる梅子嬢をすら頭ごなしに叱飛していたとのことである・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・が、同じく西の人で、これを知っていたところの真率で善良で忠誠な細君はカッとなって瞋った。が、直にまた悲痛な顔になって堪え涙をうるませた。自分の軽視されたということよりも、夫の胸の中に在るものが真に女わらべの知るには余るものであろうと感じて、・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・帰る時も舟から直に本所側に上って、自分の屋敷へ行く、まことに都合好くなっておりました。そして潮の好い時には毎日のようにケイズを釣っておりました。ケイズと申しますと、私が江戸訛りを言うものとお思いになる方もありましょうが、今は皆様カイズカイズ・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ と無慾の人だから少しも構いませんで、番町の石川という御旗下の邸へ往くと、お客来で、七兵衞は常々御贔屓だから、殿「直にこれへ……金田氏貴公も予て此の七兵衞は御存じだろう、不断はまるで馬鹿だね、始終心の中で何か考えて居って、何を問い掛・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・片隅へ身を寄せて、上り框のところへ手をつき乍ら、何か低い声で物を言出した時は、自分は直にその男の用事を看て取った。聞いて見ると越後の方から出て来たもので、都にある親戚をたよりに尋ねて行くという。はるばるの長旅、ここまでは辿り着いたが、途中で・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・ なほ考ふるに、舜はもと一田夫の子、いかに孝行の名高しと雖、堯が直に之を擧げて帝王の位を讓れりといへる、その孝悌をいはんがためには、その父母弟等の不仁をならべて對照せしめしが如きは、之をしも史實として採用し得べきや。又禹の治水にしても、・・・ 白鳥庫吉 「『尚書』の高等批評」
・・・君は、そういう場合、まるで非芸術のように頑固で、理由なしに、ただ、左を右と言ったものだが、温良に正直にすべてを語って御覧。誰も聞いていないのだよ。一生に最初の一度。嘘でも、また、ひかれ者の小唄でもないもの。まともなことを正直に僕に訴えて見給・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・私の今宵のこの言葉を、君、このまま素直に受けたまえ。ダス・ゲマイネに就いて いまより、まる二年ほどまえ、ケエベル先生の「シルレル論」を読み、否、読まされ、シルレルはその作品に於いて、人の性よりしてダス・ゲマイネを駆逐し、ウー・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・しかし先ず大抵の絵は少し永く見ていると直にそれほどの魅力はなくなる、そして往々一種の堪え難い浮薄な厭味が鼻につく場合も少なくない。技巧というものが畢竟それ限りのものであって、それ以上の何物をも有せぬものとすれば、これは当然な事ではあるまいか・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
・・・私ア恁う恁うしたもので、これこれで出向いて来ましたって云うことを話すと、直に夫々掛りの人に通じて、忰の死骸の据ってるところへ案内される。死骸はもう棺のなかへ収まって、花も備えてあれば、盛物もしてある。ちゃんと番人までつけて、線香を絶やさない・・・ 徳田秋声 「躯」
出典:青空文庫