・・・とうとうしまいにあの女は、少将の直垂の裾を掴んだ。すると少将は蒼い顔をしたまま、邪慳にその手を刎ねのけたではないか? 女は浜べに倒れたが、それぎり二度と乗ろうともせぬ。ただおいおい泣くばかりじゃ。おれはあの一瞬間、康頼にも負けぬ大嗔恚を起し・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・ 今はたとい足許が水になって、神路山の松ながら人肌を通す流に変じて、胸の中に舟を纜う、烏帽子直垂をつけた船頭なりとも、乗れとなら乗る気になった。立花は怯めず、臆せず、驚破といわば、手釦、襟飾を隠して、あらゆるものを見ないでおこうと、胸を・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・「おんたまものの光は身に添い、案山子のつづれも錦の直垂。」 翁が傍に、手を挙げた。「石段に及ばぬ、飛んでござれ。」「はあ、いまさらにお恥かしい。大海蒼溟に館を造る、跋難佗竜王、娑伽羅竜王、摩那斯竜王。竜神、竜女も、色には迷う・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・結局は甲冑の如く床の間に飾られ、弓術の如く食後の腹ごなしに翫ばれ、烏帽子直垂の如く虫干に昔しを偲ぶ種子となる外はない。津浪の如くに押寄せる外来思想は如何なる高い防波堤をも越して日一日も休みなく古い日本の因襲の寸を削り尺を崩して新らしい文明を・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・ 烏帽子直垂とでもいったような服装をした楽人達が色々の楽器をもって出て来て、あぐらをかいて居ならんだ。昔明治音楽界などの演奏会で見覚えのある楽人達の顔を認める事が出来たが、服装があまりにちがっているので不思議な気がするのであった。 ・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫