・・・、二階に治療機械を備えつけてあるのだが、いかにも煤ぼけて、天井がむやみに低く、機械の先が天井にすれすれになっていて、恐らく医者はこごみながら、しばしば頭を打っつけながら治療するのではないかと思われる。看板が掛っていなければ、誰もそんな裏長屋・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・という看板が屋根の上へ張り出されている粗末な洋風家屋であった。十ほどあるその窓のあるものは明るくあるものは暗く閉ざされている。漏斗型に電燈の被いが部屋のなかの明暗を区切っているような窓もあった。 石田はそのなかに一つの窓が、寝台を取り囲・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 彼は往来で医者の看板に気をつける自分を見出すようになった。新聞の広告をなにげなく読む自分を見出すようになった。それはこれまでの彼が一度も意識してした事のないことであった。美しいものを見る、そして愉快になる。ふと心のなかに喜ばないものが・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・そこで、病気だと云って内地米ばかりを配給して貰う者が出てくる──一度や二度はその病気の看板もきくがそうたび/\は通らない。そこで医者の診断書を取ってくる。これなどまだ小心で正直な方だが口先のうまい奴は、これまでの取りつけの米屋に従来儲けさし・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
・・・ しばらくして、水汲みから帰って来た下女に聞くと、その男は自分の家を出ると直に一膳めしの看板をかけた飲食店へ入ったという。其時自分は男の言葉を思出して、「まだ朝飯も食べません。」と、繰返して笑った。定めし男の方でも自分の言葉を思出して「・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・ 春の新学年前から塾では町立の看板を掛けた。同時に、高瀬という新教員を迎えることに成った。学年前の休みに、先生は東京から着いた高瀬をここへ案内して来た。岡の上から見ると中棚鉱泉とした旗が早や谷陰の空に飜っている。湯場の煙も薄く上りつつあ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ただ意味もなく、活動小屋の絵看板見あげたり、呉服屋の飾窓を見つめたり、ちえっちえっと舌打ちしては、心のどこかの隅で、負けた、負けた、と囁く声が聞えて、これはならぬと烈しくからだをゆすぶっては、また歩き、三十分ほどそうしていたろうか、私はふた・・・ 太宰治 「黄金風景」
・・・ふと絵看板を見ると、大きな沼で老若男女が網を曳いているところがかかれていて、ちょっと好奇心のそそられる絵であった。私は立ちどまった。「伯耆国は淀江村の百姓、太郎左衛門が、五十八年間手塩にかけて、――」木戸番は叫ぶ。 伯耆国淀江村。ち・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・五 この男の勤めている雑誌社は、神田の錦町で、青年社という、正則英語学校のすぐ次の通りで、街道に面したガラス戸の前には、新刊の書籍の看板が五つ六つも並べられてあって、戸を開けて中に入ると、雑誌書籍のらちもなく取り散らされた室・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ 政府の所属で、各種科学の特殊な専門的題目の研究所として看板をかけた処では、比較的にいくらか自由である。しかし、例えば蚯蚓の研究所で鯨の研究をやりたいといったような場合には、ともかくも一応上長官の諒解を得るために、その研究の結果がその研・・・ 寺田寅彦 「学問の自由」
出典:青空文庫