・・・夏の夜の月円きに乗じて、清水の堂を徘徊して、明かならぬ夜の色をゆかしきもののように、遠く眼を微茫の底に放って、幾点の紅灯に夢のごとく柔かなる空想を縦ままに酔わしめたるは、制服の釦の真鍮と知りつつも、黄金と強いたる時代である。真鍮は真鍮と悟っ・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・あれでも万事整頓していたら旦那の心持と云う特別な心持になれるかも知れんが、何しろ真鍮の薬缶で湯を沸かしたり、ブリッキの金盥で顔を洗ってる内は主人らしくないからな」と実際のところを白状する。「それでも主人さ。これが俺のうちだと思えば何とな・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・しまいに肩にかけた箱の中から真鍮で製らえた飴屋の笛を出した。「今にその手拭が蛇になるから、見ておろう。見ておろう」と繰返して云った。 子供は一生懸命に手拭を見ていた。自分も見ていた。「見ておろう、見ておろう、好いか」と云いながら・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・盆栽の花に水を遣ったり、布団の塵を掃ったり、扉の撮の真鍮を磨いたりする内に、つい日は経ってしもうた。その間、頭の中には、まあ、どんな物があったろう。夢のような何とも知れぬ苦痛の感じが、車の輪の廻るように、頭の中に動いていた。あの何とも言えぬ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・車室の中は、青い天蚕絨を張った腰掛けが、まるでがら明きで、向うの鼠いろのワニスを塗った壁には、真鍮の大きなぼたんが二つ光っているのでした。 すぐ前の席に、ぬれたようにまっ黒な上着を着た、せいの高い子供が、窓から頭を出して外を見ているのに・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・襟に真鍮の番号をつけられていたそのとおり、墓標にも第一に目につくように黒々と番号が記されてある。あたりには花も樹もない。何とも云えぬ悲しい清潔な白い十字の林を、フランスの芳醇な秋の空気がつつんでいるのである。 自動車はスピードをもって山・・・ 宮本百合子 「女靴の跡」
・・・首がガクつくのをガーゼで巻いてある真鍮の呼鈴、一緒に、アスパラガスに似た鉢植が緑の細かい葉をふっさり垂れていた。 日本でも猫が葉っぱをたべたりするのかしらん。―― 床に黄色い透明な液体が底にたまった大コップがある。胆汁だ。斑猫はその・・・ 宮本百合子 「子供・子供・子供のモスクワ」
・・・“905”日本女の受けとった外套防寒靴預番号の真鍮札。 外にあんな雨と暗い道があるとは思われぬ。 絶えず人が登り降りしている大階段を日本女は二階へあがって行った。 とっつきが国防科学協会の研究室だ。壁にかかってる毒ガス演習の・・・ 宮本百合子 「三月八日は女の日だ」
・・・ どちらも一階の往来に面した処にあった。真鍮の太い手摺にぴったりよって立ち、私は、ぼんやり空想の世界に溶け込む。 ああ、あの高貴そうな金唐草の頸長瓶に湛えられている、とろりとした金色の液を見よ。揺れると音が立ち、日が直射すると虹さえ・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・煖炉があるのに、枕元に真鍮の火鉢を置いて、湯沸かしが掛けてある。その傍に九谷焼の煎茶道具が置いてある。小川は吭が乾くので、急須に一ぱい湯をさして、茶は出ても出なくても好いと思って、直ぐに茶碗に注いで、一口にぐっと呑んだ。そして着ていたジャケ・・・ 森鴎外 「鼠坂」
出典:青空文庫