・・・政さんは真顔になって、「おとよさんは本当にかわいそうだよ。一体おとよさんがあの清六の所にいるのが不思議でならないよ。あんまり悪口いうようだけど、清六はちとのろ過ぎるさ。親父だってお袋だってざま見さい。あれで清六が博打も打つからさ。おとよ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・と薬を飲むカラダじゃないからね。年なんかアテにならん。僕がアトへ残るのは知れ切ってる。こりゃあマジメだよ、君が死ねばきっと墓石へ書いてやる。森に墓銘を書かせろと遺言状に書いて置いてもイイ、」と真顔になっていった。 一度冠を曲げたら容易に・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・しばし母上と二郎が幸なき事ども語り合いしが母上、恋ほどはかなきものはあらじと顔そむけたもうをわれ、あらず女ほど頼み難きはなしと真顔にて言いかえしぬ。こは世にありがちの押し問答なれどわれら母子の間にてかかる類の事の言葉にのぼりしは例なきことな・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・源叔父は真顔にていう。「我子とは誰ぞ」老婦は素知らぬ顔にて問いつ、「幸助殿はかしこにて溺れしと聞きしに」振り向いて妙見の山影黒きあたりを指しぬ、人々皆かなたを見たり。「我子とは紀州のことなり」源叔父はしばしこぐ手を止めて彦岳の方・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・』 時田はほとんど一口も入れないで黙って聴いていたが、江藤がやっとやめたので、『その百姓家に娘はいなかったか、』と真顔で問うた。『アアいたいた八歳ばかしの。』何心なく江藤は答える。『そいつは惜しかった十六、七で別品でモデルに・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・といいつつ老人は懐中から新聞を一枚出して、急に真顔になり「ちょっとこれを御覧」 披げて二面の電報欄を指した。見ると或地方で小学校新築落成式を挙げし当日、廊の欄が倒れて四五十人の児童庭に顛落し重傷者二名、軽傷者三十名との珍事の報道であ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・娘は、紅を塗ったような紅い健康そうな唇を舌でなめながら真顔になった。紅い唇はこっちの肉感を刺戟した。ロシアの娘にはメリケン兵の不正が理解せられないところだった。「これが偽札なら、あんた方がこしらえたんでしょう。そうにきまってる! どうしてア・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・と真顔になって尋ねた。中村はニヤリと笑った。「誠はもとより尊い。しかし準備もまた尊いよ。」 若崎には解釈出来なかった。「竜なら竜、虎なら虎の木彫をする。殿様御前に出て、鋸、手斧、鑿、小刀を使ってだんだんとその形を刻み出す。次・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・君兪は最初は気位の高いところから、町人の腹ッぷくれなんぞ何だという位のことで贋物を真顔で視せたのであるが、元来が人の悪い人でも何でもなく温厚の人なので、欺いたようになったまま済ませて置くことは出来ぬと思った。そこで門下の士を遣って、九如に告・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・どこから手に入れて来るのか、名の知れぬ同人雑誌をたくさん集めて、面白いなあ、うまいなあ、と真顔で呟きながら、端から端まで、たんねんに読破している。ほんとうは、鏡花をひそかに、最も愛読していた。末弟は、十八歳である。ことし一高の、理科甲類に入・・・ 太宰治 「愛と美について」
出典:青空文庫