・・・私はハッと驚きましたが知らぬ顔をして居ました。すると「お母さん。顔がこんなに腫れました。手も腫れました。眼が充分明けません。一寸鏡を貸して下さい」と言います。その時私は、鏡を見せるのはあまりに不愍と思いましたので、鏡は見ぬ方がよかろうと言い・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・つまり自分は知らぬ顔をしていて妻の為すがままに任かすことに思い定めた。 朝食を終るや直ぐ机に向って改築事務を執っていると、升屋の老人、生垣の外から声をかけた。「お早う御座い」と言いつつ縁先に廻って「朝ぱらから御勉強だね」「折角の・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・何事も知らぬ顔して、池のほうへ、そっと視線を返し、自分の心を落ちつかせる為に袂から煙草を取出して一服吸った。「僕の名はね、」あきらかに泣きじゃくりの声で、少年は、とぎれとぎれに言い出した。「僕の名はね、佐伯五一郎って言うんだよ。覚えて置・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・お月様は、知らぬ顔をしていた。ふと、この同じ瞬間、どこかの可哀想な寂しい娘が、同じようにこうしてお洗濯しながら、このお月様に、そっと笑いかけた、たしかに笑いかけた、と信じてしまって、それは、遠い田舎の山の頂上の一軒家、深夜だまって背戸でお洗・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・けれども、こんな日常倫理のうえの判り切った出鱈目を、知らぬ顔して踏襲して行くのが、また世の中のなつかしいところ、血気にはやってばかな真似をするなよ、と同宿のサラリイマンが私をいさめた。いや、と私は気を取り直して心のなかで呟く。ぼくは新しい倫・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・そして娘の方を見たが、娘は知らぬ顔をして、あっちを向いている。あのくらいのうちは恥ずかしいんだろう、と思うとたまらなくかわいくなったらしい。見ぬようなふりをして幾度となく見る、しきりに見る。――そしてまた眼をそらして、今度は階段のところで追・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・脚元近く迫る潮先も知らぬ顔で、時々頭からかぶる波のしぶきを拭おうともせぬ。 何処の浦辺からともなく波に漂うて打上がった木片板片の過去の歴史は波の彼方に葬られて、ここに果敢ない末を見せている。人の知らぬ熊さんの半生は頼みにならぬ人の心から・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・警笛を鳴らしても爺さんは知らぬ顔で一向によける意志はないようである。安全地帯に立って見ていた二、三人連れの大学生の一人が運転手の方を覗き込んで、大声で、「ソートーなもんじゃー」と云った。傍観者の立場からの批判を表明したのである。運転手は苦笑・・・ 寺田寅彦 「KからQまで」
・・・われわれは一先土間へ下した書物の包をば、よいしょと覚えず声を掛けて畳の方へと引摺り上げるまで番頭はだまって知らぬ顔をしている。引摺り上げる時風呂敷の間から、その結目を解くにも及ばず、書物が五、六冊畳の上へくずれ出したので、わたしは無造作に、・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・アーサーは知らぬ顔である。「あの袖の主こそ美しからん。……」「あの袖とは? 袖の主とは? 美しからんとは?」とギニヴィアの呼吸ははずんでいる。「白き挿毛に、赤き鉢巻ぞ。さる人の贈り物とは見たれ。繋がるるも道理じゃ」とアーサーはま・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫