・・・崖の路は暗くてただ一つ電柱についている燈がそのありかを示しているに過ぎなかった。そこを眺めながら、彼は今夜カフェで話し合った青年のことを思い出していた。自分が何度誘ってもそこへ行こうとは言わなかったことや、それから自分が執こく紙と鉛筆で崖路・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・「一筆示し上げ参らせ候大同口よりのお手紙ただいま到着仕り候母様大へん御よろこび涙を流してくり返しくり返しご覧相成り候」 何だつまらない! と一人の水兵が笑いだした。水野はかまわず、ズンズン読む、その声は震えていた。「ついてはご自・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・と筆を投じて憤りを示したほどであったが、当時は順逆乱れ、国民の自覚奮わず、世はおしなべて権勢と物益とに阿付し、追随しつつあった。荘園の争奪と、地頭の横暴とが最も顕著な時代相の徴候であった。 日蓮の父祖がすでに義しくして北条氏の奸譎のため・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 憲兵伍長は、ポケットから、大事そうに、偽札を取り出して示した。「さあ、どうだったか覚えません。――あるいは出したやつかもしれません。」「どっから受取った?」「…………」 栗島は、憲兵上等兵の監視つきで、事務室へ閉めこま・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・もっとも某先生の助力があったという事も聞いて居ますが、西洋臭いものの割には言葉遣などもよくこなれていて、而して従来のやり方とは全然違った手振足取を示した事は少からぬ震動を世に与えて居りました。勿論あれが同じあのようなものにしても生硬粗雑で言・・・ 幸田露伴 「言語体の文章と浮雲」
・・・生命の焔は恐ろしい力で燃え尽きて行くかのような勢を示した。おげんは自分で自分を制えようとしても、内部から内部からと押出して来るようなその力をどうすることも出来なかった。彼女はひどく嘆息して、そのうちに何か微吟して見ることを思いついた。ある謡・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・私は、おまえたちと、いつ迄も一緒にいることが出来ないかも知れぬから、いま、この機会に、おまえたちに模範を示してやったのだ。私のやったとおりに、おまえたちも行うように心がけなければならぬ。師は必ず弟子より優れたものなのだから、よく私の言うこと・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・困る事には、ポルジイは依怙地な奴で、それが出来ないなら云々すると、暗に種々の秘密を示して脅かす。それが総て身分不相応な事である。そこで邸では幾度となく秘密の親族会議が開かれた。弁護士や、ポルジイと金銭上の取引をしたもの共が、参考に呼び出され・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ 石島君は忙しい身であるにかかわらず、私にいろいろな事を示してくれた。士族屋敷にも行けば、かれの住んでいた家の址にもつれていってくれた。 で、その足で、熊谷町まで車を飛ばした。例の用水に添った描写は、この時に写生したものである。それ・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・しかしニーチェを評してギラギラしていると云った彼はこれらの弱点に対してかなり気の永い寛容を示している。迫害者に対しては常に受動的であり、教えを乞う者にはどんな馬鹿な質問にでも真面目に親切に答えている。 智能の世界においての貴族である彼は・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫