・・・その時母は口の内で何か祈りながら、背を振ってあやそうとする。すると旨く泣きやむ事もある。またますます烈しく泣き立てる事もある。いずれにしても母は容易に立たない。 一通り夫の身の上を祈ってしまうと、今度は細帯を解いて、背中の子を摺りおろす・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・ 此一章は専ら嫉妬心を警しむるの趣意なれば、我輩は先ず其嫉妬なる文字の字義を明にせんに、凡そ他人の為す所にして我身の利害に関係なきことを羨み、怨み憎らしく思い、甚しきは根もなきことに立腹して他の不幸を祈り他を害せんとす、之を嫉妬と言う。例え・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・我が義塾においては、生徒の卒業に至るまでは、ただ学識を育して判断の明を研くの一方に力をつくし、業成り塾を去るの後は、行くところに任して、かつてその言行に干渉するなしといえども、つねにその軽率ならざるを祈り、論ずるときは大いに論じ、黙するとき・・・ 福沢諭吉 「経世の学、また講究すべし」
・・・思いたえてふり向く途端、手にさわる一蓋の菅笠、おおこれよこれよとその笠手にささげてほこらに納め行脚の行末をまもり給えとしばし祈りて山を下るに兄弟急難とのみつぶやかれて 鶺鴒やこの笠たゝくことなかれ ここより足をかえしてけさ馬車に・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・お前のお父さんは七年前の不作のとき祭壇に上って九日祷りつづけられた。お前のお父さんはみんなのためには命も惜しくなかったのだ。ほかの人たちはどうだ。ブランダ。言ってごらん。」 ブランダと呼ばれた子はすばやくきちんとなって答えました。「・・・ 宮沢賢治 「学者アラムハラドの見た着物」
・・・そのときさそりは斯う云ってお祈りしたというの、 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにも・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・如何なれば常に御前に跪き祈りし夫れを顧み給はざるや。余の祭壇には多くの捧物なせる中に最大の一なりし余が laura を捧げたる夫れなりき。而して余は神の供物を再び余のものたらしめんとするなり。汚涜の罪何をもつてかそゝがれんや。ヒソプも亦能は・・・ 宮本百合子 「「或る女」についてのノート」
・・・国内には廃兵が充満した。祷りの声が各戸の入口から聞えて来た。行人の喪章は到る処に見受けられた。しかし、ナポレオンは、まだ密かにロシアを遠征する機会を狙ってやめなかった。この蓋世不抜の一代の英気は、またナポレオンの腹の田虫をいつまでも癒す暇を・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・と浅からぬ御恵もて、婢女の罪と苦痛を除き、この期におよび、慈悲の御使として、童を遣わし玉いし事と深く信じて疑わず、いといとかしこみ謝し奉る」と。祈り終って声は一層幽に遠くなり、「坊や坊には色々いい残したいことがあるが、時迫って……何もいえな・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・私は自分に近い人々を一人一人全身の愛で思い浮かべ、その幸福を真底から祈り、そうしてその幸福のためにありたけの力を尽くそうと誓いました。やがて私の心はだんだん広がって行って、まだ見たことも聞いたこともない種々の人々の苦しみや涙や歓びやなどを想・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫