・・・驚いて箸を持ったまま、思わず音のする彼方を見返ると、底びかりのする神秘な夜の空に、宵の明星のかげが、たった一ツさびし気に浮いているのが見える。枯れた樹の梢に三日月のかかっているのを見ることもある。 やがて日の長くなることが、やや際立って・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・人を化す事、伝通院裏の沢蔵稲荷の霊験なぞ、こまごまと話して聞かせるので、私は其頃よく人の云うこっくり様の占いなぞ思合せて、半ばは田崎の勇に組して、一緒に狐退治に行きたいようにも思い、半ばは世にそう云う神秘もあるのか知らと疑いもしたのであった・・・ 永井荷風 「狐」
・・・猛烈なものでも、沈静なものでも、形式の整ったものでも、放縦にしてまとまらぬうちに面白味のあるものでも、精緻を極めたものでも、一気に呵成したものでも、神秘的なものでも、写実的なものでも、朧のなかに影を認めるような糢糊たるものでも、青天白日の下・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
・・・それは極めて幼稚な神秘的な考である。芸術的直観といえども、そうしたものではない。それは無限の過程であるのである。物理学というものも、歴史的身体的なる我々の感官の無限なる行為的直観の過程に基くのである。直観的過程において一々の点が始であり終で・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・を持っているということほど、メタフィジックの神秘を包んだ問題はない。私は昔子供の時、壁にかけた額の絵を見て、いつも熱心に考え続けた。いったいこの額の景色の裏側には、どんな世界が秘密に隠されているのだろうと。私は幾度か額をはずし、油絵の裏側を・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ペーンはそのかおを眉のあたりからズーッと見廻して神秘的の美くしさに思わず身ぶるいをしてひくいながら心のこもった声で云う。ペーン マア何と云う御前は美くしい事だ。そのこまっかい肌、そのうす赤くすき通る耳たぼをもって居る御前は――世界中・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・性的な欲望を満たすことは喉の干いた時一杯の水をのむにひとしいという言葉の最も素朴な理解が、恋愛、結婚に対する過去の神秘主義的封建的宿命論の反撥として、勇敢に実行にうつされた。個人生活と階級人としての連帯的活動とが二元的な互に遊離したものとし・・・ 宮本百合子 「新しい一夫一婦」
・・・石は意志を現す、とそんな冗談をいうほどまでに、彼は、長年の生活のうちこの石からさまざまな音響の種類を教えられたが、これはまことに恐るべき石畳の神秘な能力だと思うようになって来たのも最近のことである。何かそこには電磁作用が行われるものらしい石・・・ 横光利一 「微笑」
・・・ Form の神秘。彼女はそれを悟った。彼女は Stil を貫徹した。元来スチルというものは学校の先生が言うように古えの芸術家から学ぶべきものではない。人間の奥底にひそんでいるのだ。自分の胸から掘り出すべきものだ。デュウゼはそれを知って・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
・・・しめじ茸に至れば清純な上に一味の神秘感を湛えているように見える。子供心にもこういうふうな感じの区別が実際あったのである。特にこれらの茸と毒茸との区別は顕著に感ぜられた。赤茸のような鮮やかな赤色でもかつて美しさを印象したことはない。それは気味・・・ 和辻哲郎 「茸狩り」
出典:青空文庫