・・・ 右左に大な花瓶が据って、ここらあたり、花屋およそ五七軒は、囲の穴蔵を払ったかと思われる見事な花が夥多しい。白菊黄菊、大輪の中に、桔梗がまじって、女郎花のまだ枯れないのは、功徳の水の恵であろう、末葉も落ちず露がしたたる。 時に、腹帯・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・急いだが、裾をはらりと、長襦袢の艶なのが、すらすらと横歩きして、半襟も、色白な横顔も、少し俯向けるように、納戸から出て来たのが、ぱっと明るみへ立つと、肩から袖が悄れて見えて、温室のそれとは違って、冷い穴蔵から引出しでもしたようだった、その顔・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・そこは、空気が淀んで床下の穴倉から、湿気と、貯えられた葱や馬鈴薯の匂いが板蓋の隙間からすうっと伝い上って来た。彼は、肩から銃をおろし、剣を取り、羊皮の帽子も、袖に星のついた上衣も乗馬靴もすっかりぬぎ捨ててしまった。ユーブカをつけた女は、次の・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・窓でも閉められてみろ、此処はそのまゝ穴蔵になってしまう。「調べだ。――でろ。」 俺は助かったと思った。そして元気よく立ち上がった。 三階に上がって行くと、応接間らしいところに、検事が書記を連れてやってきていた。俺はそこで二時間ほ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・私は或る期間、穴蔵の中で、陰鬱なる政治運動に加担していた。月のない夜、私ひとりだけ逃げた。残された仲間は、すべて、いのちを失った。私は、大地主の子である。転向者の苦悩? なにを言うのだ。あれほどたくみに裏切って、いまさら、ゆるされると思って・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・女主人公が穴蔵へ引っ込んだあとへイルマが蠅取り紙を取り換えに来る、それをながめていたおやじの、暑さでうだった頭の中に獣性が目ざめて来る。かすかな体臭のようなものが画面にただよう。すると、おやじはのそのそ立ち上がり、「氷を持って来い」といいす・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・ここは地面の下に通ずる穴倉でその内には人が二人いる。鬼の国から吹き上げる風が石の壁の破れ目を通って小やかなカンテラを煽るからたださえ暗い室の天井も四隅も煤色の油煙で渦巻いて動いているように見える。幽かに聞えた歌の音は窖中にいる一人の声に相違・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・俺たちが何故死んじまわないんだろうと不思議に思うだろうな、穴倉の中で蛆虫見たいに生きているのは詰らないと思うだろう。全く詰らない骨頂さ、だがね、生きてると何か役に立てないこともあるまい。いつか何かの折があるだろう、と云う空頼みが俺たちを引っ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・その急な小径の崖も赭土で、ここは笹ばかりが茂っていた。穴蔵の中に下りてゆくように夏その坂道は涼しかった。そして、冬は、その坂をのぼり切って明るい高台道の日向に出たとき、急にはっきり陽のぬくみを顔に感じた。 私たち子供達が田端の汽車見物を・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・ この新たに盛り上って「慎重になった民衆のサムソンは今日以後、社会の柱石を祭典の広間に揺がす代りに、穴倉の中で覆す」であろう階級勢力を、「支配するためには暗黒にとどめて置かなければならない」というバルザックの実践的な結論と、彼が法律や権・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
出典:青空文庫