・・・もともと分れ分れの小屋敷を一つに買占めた事とて、今では同じ構内にはなって居るが、古井戸のある一隅は、住宅の築かれた地所からは一段坂地で低くなり、家人からは全く忘れられた崖下の空地である。母はなぜ用もない、あんな地面を買ったのかと、よく父に話・・・ 永井荷風 「狐」
・・・旅への誘いは、私の疲労した心の影に、とある空地に生えた青桐みたいな、無限の退屈した風景を映像させ、どこでも同一性の法則が反覆している、人間生活への味気ない嫌厭を感じさせるばかりになった。私はもはや、どんな旅にも興味とロマンスをなくしてしまっ・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・塵の積んである二坪ばかりの空地から、三本の坑道のような路地が走っていた。 一本は真正面に、今一本は真左へ、どちらも表通りと裏通りとの関係の、裏路の役目を勤めているのであったが、今一つの道は、真右へ五間ばかり走って、それから四十五度の角度・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・卓の上には物を書いた紙が一ぱいに散らばっていて、ほとんど空地が無い。それから給仕は来た時と同じように静かに謹んで跡へ戻って、書斎の戸を締めた。開いた本を閉じたほどの音もさせなかったのである。 ピエエル・オオビュルナンは構わずに、ゆっくり・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・其村の外れに三つ四つ小さい墓の並んでいる所があって其傍に一坪許りの空地があったのを買い求めて、棺桶は其辺に据えて置いて人夫は既に穴を掘っておる。其内に附添の一人は近辺の貧乏寺へ行て和尚を連れて来る。やっと棺桶を埋めたが墓印もないので手頃の石・・・ 正岡子規 「死後」
・・・ あれは空地のかれ草の中に一本のうずのしゅげが花をつけ風にかすかにゆれているのを見ているからです。 私は去年のちょうど今ごろの風のすきとおったある日のひるまを思い出します。 それは小岩井農場の南、あのゆるやかな七つ森のいちばん西・・・ 宮沢賢治 「おきなぐさ」
・・・同じ空地、もう一つ売店があり、そっちでパンを売っている。そこも一杯の人だ。 三点鐘が鳴ってから、Y、車室へかえって来た。 十月二十七日。 朝窓をあけたら、黄色い初冬の草の上にまだらな淡雪があった。 杉林の中の小さいステー・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・そして家の背後の空地の隅に蹲って、夜どおし泣いた。 色の蒼ざめた、小さい女房は独りで泣くことをも憚った。それは亭主に泣いてはならぬと云われたからである。女と云うものは涙をこらえることの出来るものである。 翌日は朝から晩まで、亭主が女・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・そこは秋三の家に属している空地であった。 その日最早や安次は自由に歩くことも出来なくなっていた。彼は勘次の家の小屋から戸板に吊られて新しい小屋まで運ばれた。 勘次は自分の手から全く安次が離れていったのだと思うと、今迄の安次に向ってい・・・ 横光利一 「南北」
ある男が祖父の葬式に行ったときの話です。 田舎のことで葬場は墓地のそばの空地を使うことになっています。大きい松が二、三本、その下に石の棺台、――松の樹陰はようやく坊さんや遺族を覆うくらいで、会葬者は皆炎熱の太陽に照りつけられながら・・・ 和辻哲郎 「土下座」
出典:青空文庫